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.国際  投稿日:2016/8/29

首相が国王を斬り捨てた? 知られざる王者の退位その6


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

天皇の「お言葉」は海外でも大きく報じられ、その反響には、皇室がいかに国際的に注目を集めているか、あらためて考えさせられることも、たしかに多かった。

中韓の報道が、天皇に対してなかなか好意的であったこともそうだが、英国王室に近い筋が、打てば響くように、「エリザベス2世女王の生前退位はあり得ない」とコメントしたことが、とりわけ印象深い。

エリザベス2世女王は、かねてから「国民と生涯を共にする」と述べていたので、とりたてて意外なコメントでもなかったが、やはり日本の皇室に対しては、浅からぬ縁を感じているに違いない。

ただ、英国の女王がどうしてこのような発言を繰り返しているのか、と考えた時、これまでの生涯において、二度にわたって王位継承をめぐる危機的な状況を体験してきたことと、無関係であるとは思えないのである。

最初の危機とは、本シリーズの第2回でも紹介した「王冠を捨てた恋」で、実はこの時、政府と国王との対立が決定的になりかけた。経緯を簡単に復習しておくと、1936年1月20日、英国王ジョージ5世の逝去に伴い、長男がエドワード8世として即位した。ところが、この新国王は、ウォリス・シンプソン夫人という、アメリカ人女性との関係を清算できなかったのである。

王家の面々はもとより、英国国教会、さらには政治家やマスコミに至るまで、誰も新国王と離婚歴のある人妻との結婚(世に言う略奪婚だ)を支持などしなかった。当のエドワード8世は、最初のうち、彼女が離婚すれば問題はないだろう、といった程度の考えであったらしい。しかし時の政府は、外交ルートを通じて、英連邦諸国の首相全員の意見を取りまとめた。結果は「一致して反対」。進退窮まった新国王は、ラジオ放送を通じて、自分がいかにウォレス・シンプソンという女性を深く愛しているかを国民に直接訴え、結婚に対する支持を呼びかけることまで考えた。ところが、政府がこのアイデアを握りつぶしてしまう。

細かな経緯までは分からないが、草稿の内容が、事前にスタンリー・ボールドウィン首相の知るところとなったのだ。首相は国王に対し、

「政府の助言なしにこのような演説を行うことは、立憲君主制の精神に反します」と国王に上奏し、放送を諦めさせた。この結果、いささかノイローゼ気味になったとも伝えられる国王は、退位を決断するのである。

個人的な話になるが、今次の天皇による、生前退位に対して「国民の理解」を求める放送を見て、まず思い出されたのは、この故事であった。

まず7月に、NHKのスクープといった形で「生前退位のご意向」が示され、その後8月8日に、ビデオレターの放送という異例の形での「お言葉」という流れは、ことによると政権側から横槍が入ることを、未然に防ぐための手立てだったのではないかーー天皇ご自身が「王冠を捨てた恋」の顛末について知らぬはずはないので、ついそのような想像をめぐらしてしまうのである。あくまで勝手な想像であることは明記しておくが。

話を戻して、エドワード8世の退位に対しても、英国民は決して好意的ではなかった。なんとかノベルズであれば、その名も「王冠を捨てた恋」とは、ロマンチックの極みと描かれるかも知れぬが、現実の社会はだいぶ趣が違う。「大英帝国の元首が、不倫・略奪婚とはゲスの極み」と受け取られた。いや、これは真面目な話である。

ただ一人、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルだけは、

「国王といえど、自由恋愛は認められねばならない」として、他の閣僚や議会を説得して廻り、退位への道筋を付けた。しかし、最近の研究では、これも「政治利用」だったのではないか、との疑念が浮上してきている。

これも第3回で紹介した通り、エドワード8世は、気さくな人柄で国民的人気がある人物だったが、反面、なかなか強烈な白人優越主義者であった。皇太子時代すでに、オーストラリアの先住民に対する差別発言で物議を醸したこともあったし、当時すでにドイツではナチス政権が成立していたわけだが、その反ユダヤ主義に対しても(ユダヤ人虐殺の事実は、戦後まで明かされなかったが)、半ば公然と同調していたという。

当時の英国の政界は、宥和政策派(戦争回避論)と対独強硬派(戦争不可避論)とに分裂していたが、チャーチルはよく知られる通り、かなり早い段階から、ナチス・ドイツとの戦争は避けがたい、と考えていた。そのような時期に、国王がそんな態度では、一致してナチスとの戦いに邁進することなどできない。そう考えたチャーチルは、言わば不倫問題を奇貨として、体よくエドワード8世を王座から追いやってしまったのではないか、というわけだ。

これが、そのものズバリの真相なのかどうかは、今となっては確認のしようもない。しかし、その後の、具体的には1939年の第2次世界大戦をはさんでの英国政治の動きを見ると、あながち的外れな推論とも決めつけがたい。

とどのつまり英国のエリザベス2世女王は、「王権と議会政治は、常に一種の緊張状態にある」ということを、まことによく理解しているのだ。そして自身も、1990年代に、「国民世論と王権も、一種の緊張状態にある」ということを、思い知らされることとなった。具体的には、チャールズ皇太子の結婚と離婚、そしてダイアナ元妃の悲劇的な死を巡っての騒動である。

次回は、その話を。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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