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.社会  投稿日:2014/1/30

[為末大]本当に目を向けるべきは「目立つ多様性」ではなく「自分の中に既にある多様さ」である〜「オール5評価」で5がたくさんあるよりも「一つが30」の方が役に立つ


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

執筆記事プロフィールWebste

 

◆オール5評価法と努力重視と潔癖性◆

「成長したい」と言う時、実は多くの人は「弱点の克服」の話をしている。「これができない、ここが弱い」。そういうものを克服する事を「成長」と呼ぶ。これは学校教育の中で5段階で評価をする為、5が限界でしかないから、弱いものに目を向ける癖がつくのではないかと思う。

これに「努力重視」が加わると、弱点を克服できないのは「自分の努力不足だ」という事になる。そして「潔癖性」が加われば、それがどうにも気になってしょうがない。結果、自分の努力、時間を、全て自分が得意ではないものに費やす癖ができてしまう。

「善いものは完全である」という考えは根強い。実際には、短距離選手は長距離を走る能力が極めて低い事はよくある。私のように全く球技ができない人も大勢いる。才能とは「偏り」の事で、才能を伸ばすとは「偏り」をより極めていく事。

日本は競争が少ない。競争の利点は、自分の努力ではどうしようもない領域を知る事。本物に出会う事で完全主義を壊せる事。低いレベルでは完全主義は成り立つけれど、世界レベルでは特化しか無い。長所を徹底的に磨ききってそれでも通用するかどうか。

「オール5評価」と、努力重視、潔癖性が背景にある完全主義は、人間を辛くする。目はいつも自分の弱点を向き、それができないのは自分のせいと思い、そして完全ではない自分を許せない。本当は5がたくさんあるより一つが30の方が役に立つ。

多様性が流行っている。女性が活躍する、LGBT、障碍者雇用。けれども本当に目を向けるべきは、そうして「目立つ多様性」ではなく「自分の中に既にある多様さ」に目を向けてあげる事ではないかと、私は思う。

 

◆上か下かに囚われる◆

綾小路きみまろさんが話していたことで、「うーん」と感銘を受けた事がある。

 “昔、キャバレーでネタをやっていた事があって、今と同じような事をやっていたんですが、全然ウケなかった。ところが自分が年を取ってくると、それがウケるようになった。笑われる自分に慣れたんです”

私達は、その人が自分より上か、それとも下かを敏感に感じ取っているように思う。キレイな人が「ブサイク」と言う事は許されないけれど、例えば、オカマというジャンルの人達が言うのは許される。“笑われておくのは保険よ”とオカマバーの店主。

ドヤ顔や上から目線等、「上か、下か」に関する言葉が多いように思うけれど、おそらく本当は「下から目線」というものもある。自分は下から見ているという意識が強く、上下に敏感になってしまう。勝つか負けるか、見下すか見下されるかしかない世界。

北野武さんが、山本モナさんを復帰させる時、かぶり物をさせたという事にとても優しさを感じる。笑い者にされた瞬間、ある程度、罪は軽減される。笑わせているではなく、笑われている。社会の立ち位置がその時、ズレる。

「笑わせる」と「笑われる」でも随分違う。“笑わせる事はできても、笑われるに耐えられる人は少ないんだよ”と芸人さん。確かにそういう側面はあるように思う。「笑われる準備をしている場所ではない所」を笑われると急に腹が立つ。

敏感に感じ取る相手との上下という関係性。社会性を持った人間の性だろうか。

 

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