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.社会  投稿日:2016/10/31

「実は治安は悪化していない」という説 自壊した日本の安全神話その7


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

風が吹けば肌寒く感じることは、誰でも知っている。しかし、風速と体感温度の関係についての知識が普及しているとは言い難い。いわゆるアウトドア派の人々の間では、山歩きの際など、「風速が1メートル増すと、体感温度は1度下がる」という話が広く信じられているようだが、本当のところ、これはあまり根拠のない話で、体感温度を割り出すには、かなり複雑な計算が必要になるらしい。

ごく単純に考えても、体温を上回るような気温のもとでは、風が吹くとかえって暑く感じるものである。さらに言えば、風に吹かれながら歩くのと、じっと立っているのと、バイクで風を切って疾走するのとでは、体感温度はそれぞれかなり違うだろう。本シリーズは「自壊した日本の安全神話」と題して書かせていただいているが、このような問題を考える際にも、実は「体感治安」という概念があることを知っておく必要がある。

端的に言うと、治安がよくないと評判の街があったとして、警察がパトロールを強化した、としよう。この場合、実際の犯罪発生率がさほど下がらなくとも、そこら中に警察官の姿を見かけるようになったことで、皆なんとなく、治安が改善されたように感じる、というわけだ。

逆もまた真なりで、凶悪犯罪のニュースを立て続けに聞くと、自分の身の回りで直接的な被害などなくとも、「物騒な世の中になったものだ」と感じてしまうのが、人情というものだろう。別の言い方をすれば、体感治安が悪化したとは、こういうことなのである。

昨今、皆が「日本の治安が悪化した」と言うようになったせいか、実はそれほど悪化していない、と主張する学者も見受けられるようになった。たしかにデータを冷静に見る限り、21世紀に入ってから、凶悪犯罪の認知件数はさほど増えていない。

警察の犯罪検挙率が低下していると言われるが、これは、軽微な窃盗や騒音などの迷惑行為、ストーカー被害などで、警察が相談を受け、犯罪として認知する例が大幅に増えたこと、その中で、限られたマンパワーを重大犯罪の捜査に集中させているという、複合的な理由だという。

もちろん、犯罪被害者が泣き寝入りするような社会が、真に治安がよいと言えるのか、という批判はあり得よう。そのことは重々踏まえた上で、一般論として、日本の警察の捜査能力が低下したわけではないということは、データの上から明らかなのだ。

しかしながら、別のデータもある。内閣府はじめ各種の意識調査によれば、過去10年間、わが国の治安は「悪化した」と考えている人は、2012年の81.1%をピークとして、多少の増減はあるものの、高い数値を示し続けている。大半の人が治安の悪化を体感していることも、また事実なのだ。

どうしてこういうことになるのかと言うと、やはり日本人の遵法精神がなかなか高かった、ということを挙げねばなるまい。1960年代から80年代にかけて、欧米の大都市では、犯罪発生率が2倍以上になったところも珍しくなかったのに、日本では2割弱の増加にとどまっている。実際このことは、都市の工業化が進み、人口密度が高くなると、犯罪発生率も上昇する、という社会学上の通説に反するとして、世界的にも注目された。

さらに記憶に新しいところでは、東日本大震災の時、被災地での窃盗被害が非常に少なく、配給食料の奪い合いなど見られなかったことが、世界中に驚きを与え、賞賛された。にも関わらず、多くの人が「治安が悪化した」と感じる背景には、SNSなどの普及が考えられる。凶悪犯罪が起きた場合、ネットを通じて、あたかも現場に居合わせたかのような臨場感を味わえる上、時と場合で「犯人捜し」に参加できたり、事件について自由に論評し、不特定多数に開陳できる。今や子供でも知っていることだ。

つまり、かつては遠いどこかの出来事であった犯罪が、あたかも自分の身の回りで起きたことのように感じられるから、体感治安が悪化したと、人々が思い込むのだろう。

念のため述べておくと、私は、日本の治安は本当は悪化していない、という主張には与しない。今回はあくまで、データを冷静に見ることの重要性を訴えたかっただけである。次回、ネット社会における犯罪報道について、もう少し考えてみたい。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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