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.国際  投稿日:2017/3/8

ナポレオンの死因をめぐる謎 暗殺の世界史入門その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

古代ローマの歴史においてもっとも有名な人物であろうユリウス・カエサルの暗殺について、前回述べた。

では、近代ヨーロッパの歴史においてもっとも有名な(日本でもよく知られている、という意味において)人物とは誰か、と考えると、やはりナポレオン・ボナパルトの名がまず思い浮かぶ。

1769年、コルシカ島に生まれた。父親はトスカーナ貴族の末裔とされ、つまりはイタリア系ということになるが、没落して下級官吏となっていた。歴史的にコルシカ島は、地中海におけるフランスとイタリアの勢力争いの焦点となっており、フランス領となった今でも、イタリア語が話せる島民が結構多いという。ナポレオン自身、成人するまではブオナパルテというイタリア語風の姓を名乗っていた。

フランス裏社会の主流はコルシカ島出身者で占められている、という話もよく聞くが、ある程度まで事実なのか、単なる偏見なのか、よく分からない。

その詮索はさておき、ナポレオンは父親がコルシカ総督と懇意になったおかげで、国費でフランス本土の学校に進むことができた。

やがて陸軍士官学校に進むが、当時のフランス軍においては、上級貴族の子弟ほど出世が早い、という慣例がまだ残っており、花形とされ騎兵科はその最たるものであった。これに対して砲兵科は、新奇な兵種である上に、数学的才能が求められるため、家柄などにはあまりこだわらなかった。ナポレオンが砲兵将校としてキャリアをスタートさせた事情について、これ以上の説明は不要だろう。

ただ、砲兵将校であったことが、ヨーロッパ大陸諸国の歴史に、意外な影響をもたらしている。よく知られるように、ヨーロッパの多くの国で車は右側通行、したがって左ハンドルなのだが、これは世に言うナポレオン戦争当時に確立したシステムである。砲兵の移動は多くの砲車の移動を人力と馬匹でまかなうため、交通統制という考え方がとりわけ重視された。最低限、道のどちら側を進軍するか、というルールを定めておかないと、収拾がつかなくなる。右側通行が選択されたのは、ナポレオン自身が左利きで、常に左手で指揮棒を振るったため、部隊が道の右側を進んだ方が便利だったから、とされているのだ。

このように、ナポレオンの軍事思想は徹底した合理性に基づいており、当初は「烏合の衆」であったフランスの市民革命軍を、ヨーロッパ最強の軍隊に育て上げたのは、部隊編成から作戦指揮まで合理主義に徹した、ナポレオンならではの功績とされている。

そのナポレオンと戦ったプロイセン陸軍においては、天才に対抗するには衆知を集めて、というわけで、軍隊の頭脳集団と言うべき「参謀本部」の制度が考え出された。これにより、作戦立案と実際の戦闘指揮が分業化され、より複雑な作戦を実施することが可能となったわけだ。

まさに、フランス革命からナポレオン戦争を経て、近代ヨーロッパの原型が作られたと言って過言ではない。その後、幾多の戦争に勝利を収め、ついにはヨーロッパの覇者となるわけだが、ロシアでの敗戦を皮切りに転落への道をたどり、1815年、ワーテルローの戦いで英・プロイセン連合軍に敗れ、最終的には南大西洋の英領セントヘレナ島へ流刑の身となった。

1820年に他界するが、死因が明確でなく、暗殺説も根強い。

順を追って説明させていただくと、公式には胃ガンと発表され、これは未だに覆されていない。ナポレオンの父親も胃ガンにより36歳で早世している事実が、有力な根拠のひとつとされているようだ。

ではなぜ暗殺説が根深いかと言うと、享年51という当時の感覚でもまだ若い最期であったことや、1814年に一度失脚し、地中海のエルバ島に送られたものの、強引に復位した前歴があったことから、英国側に、彼を暗殺する理由があったと見なされたのである。

南大西洋から遠路フランスへと送り返された遺体が全く腐敗していなかったことや、死後に頭髪からヒ素が検出されたことも、暗殺説の有力な根拠とされた。本人が臨終に際して、「私は英国人に暗殺された」と言い残した、とも伝えられているが、これについては真偽が不明である。

いずれにせよ、シリーズ第一回で私が、暗殺か否かを判断するのは動機が第一、と述べた理由も、これでお分かりいただけたであろうか。

私は医者ではないが、胃ガンの母親を看取った経験から、病状についてはよく知っており、末期の記録などの資料と付き合わせると、ナポレオンの死因は胃ガンでまず間違いないだろう、という心証を持たざるを得ない。

各国の権威ある医学者も同様に考えているに違いなく、したがって未だ胃ガン説が覆らないことは、すでに述べた。しかしながら、「ナポレオンを暗殺する動機を持つ者」が存在したこともまた事実で、暗殺説が根強い理由も、よく分かるのである。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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