人が殺人者や暗殺者になる時 暗殺の世界史入門その8
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・古来、正義感による殺人が一番多い。戦争も正義の名の下に行われてきた。
・「テロとの戦い」を続けるものも「恐怖」に取りつかれている。
・だからこそ、暴力以外の方法で行うべき。
■殺人の動機
人類の歴史の中で、正義感によって殺された人が一番多い、と聞かされたら、どう思われるであろうか。
そんなバカな、と思われた方も決して少なくはないであろうが、これは日本がまだまだ平和であることの証であると、私は肯定的に受け止めている。中東など、宗教的理由による紛争が長く続いてきた地域に暮らす人々は、おそらく日本人とは異なる反応を示すであろうから。
昔からよく言われることであるが、人間も動物であり、種を保存しようという本能を備えている。当然ながら、同じ種である人間を殺すことには、本能的な抑制が働く。誰しも人の命を奪うという行為には、相当に強い心理的抵抗を感じざるを得ないものだ。しかしながら、人間社会というものは動物のそれよりも複雑であり、様々なきっかけで、そうした抑制が外れてしまう場合がある。
殺人の動機としてよく聞くのが憎悪と利得で、前者の典型例が身内を殺された被害者が抱く復讐感情であり、後者の典型が保険金殺人だが、現実の生活の中では、そう滅多にあることではない。
より具体例が多いのは偶発的な事態で、あらかじめ殺意があったわけではないのだが、空き巣に入ったつもりが住人と出くわし、なにか手近にあった物を凶器として殺害してしまったとか、女の子にいたずらをしたら騒がれたので思わず首を絞めた、といったケースである。
現実にこうしたケースが多いからこそ、殺人事件の裁判でしばしば殺意の有無が大きな争点になるのだが、私は個人的に、人の命を奪ったという結果の方をもっと量刑に反映させるべきであると考えている。
これはまあ、余談と受け取っていただいても結構だが、前回「暗殺はテロリズムの一形態である」と述べたことと併せて考えていただければ、また違う側面が見えてくると思う。
■正義の名の下に行われる“戦争”
話がちょっと回り道をしてしまったが、憎悪や利得が殺人の動機となることには、あまり違和感を覚えないのに、正義感が動機と言われると首をひねる人が多いのは、私などに言わせると、むしろ不思議だ。
そもそも、古来あらゆる戦争は、正義の名のもとに行われてきた。逆に言えば、正義の名のもとに命を奪われた人が一番多いというのは、さして不思議なことではない。
こう考えてみればよい。
それこそ虫も殺さないような優しいお年寄りでも、時代劇で悪人が斬られるのを見て、快哉を叫んだりすることは、ままあるのではないか。悪人にだって妻子がいるかも知れぬとか、悪代官とつるんで庶民をいじめたかも知れないが、それが殺されるほど悪いことなのか、という風に考える人は、ごく珍しいとさえ言える。これは、悪人を切り倒す主人公に正義があり、自分もまたその正義の側に立っている、と思い込んでいるからこその心理状態なのだ。
これを延長して考えれば、人が自分なりの正義感の権化と化したような場合、人の命を奪うことに対する心理的抵抗など感じなくなってしまう、というのも、納得できる話なのではないだろうか。
そもそもテロルの語源とは、恐怖を意味するラテン語である。
「戦争とは、外交とは異なった手段(=武力の行使)による外交の一形態である」
と述べたのは、かのクラウゼヴィッツだが、これを援用して述べれば、相手に恐怖を与えることをもって自らの意志を強要せんとする行為は、すべてテロリズムである。
戦争もテロリズムも、正義という概念によって正当化されている限り、これをなくして行くことは、なかなか難しい。
■「テロ」と「恐怖心」
「人の命を奪ってまで実現せねばならない正義など、本物の正義ではない」という理念を世界中の人が共有できるようになれば理想的なのだが、それも難しいだろう。なぜなら、ここまで述べてこなかったが、人の命を奪うことに対する抑制が外れる心理が、もうひとつあるからだ。
それは、恐怖である。
相手を殺さなければ自分が殺される、という状況に置かれたり、もしくはそのように信じ込んだ場合、誰もが容易に殺人者となり得る。
現在テロを繰り返す側も、逆に「テロとの戦い」を続けている側も、相手をこの世から消し去らない限り安心して暮らせない、といった恐怖心に取りつかれている。
だからこそ、お互いに正義の旗印を掲げての殺人の連鎖を絶つためには、暴力以外の手段による「本当のテロとの戦い」を、粘り強く追及して行かねばならない。
迂遠で非効率的な考えだと反論されるかも知れない。しかし、暗殺・テロという手段によって、より平和で豊かな社会が実現した例が歴史上ひとつでもあるか、と私は問いたい。
テロリズムや紛争が、本当は人の心の問題であるのなら、やはり暴力とは異なる手段で立ち向かわねばならないと、私は考えるのだが、どうだろうか。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。