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経済  投稿日:2017/6/3

【日本解凍法案大綱】21章 紫乃の忍びの舎(や)

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牛島信(弁護士)

「電気を暗くして」

紫乃に言われて、高野は我ながら滑稽だと思いつつ、「どこにあるの?」とたずねた。

「そうね、わからないわよね」

紫乃は上半身を起こすと手慣れた様子でベッドサイドのスイッチをひねった。

「ごめんなさい」

このひと言が高野に火をつけた。

(なんて優しい人なのか)

高野にとって、女性の肉体は秘められた部分を含めて、もはや見飽きたものに過ぎない。その肉体に秘められた特定の人の心がその人の肉体を特別のものにするのだ。

(乳房が大きいか小さいかではない。特定の女性に一対の乳房があって、それが気になってならないのだ。大きければ大きいものとして、小さければ小さいものとして。かけがえのない心の女性のものだから、男にとって二つとない大切な乳房になる。一つならその一つがかけがえがない。

人は心、男と女は心)

いつもそう思ってきた。

高野は勃起することができなかった。素知らぬふりをして立ち上がる。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと済まないけれどトイレに行きたくなっちゃって」

「まあ、まあ。

玄関横、向かって左です。どうぞ行ってらして」

隣の部屋に戻るとジャケットの左ポケットを探ってピルケースを取り出す。友人に分けてもらってはいたものの、実際に使ったことはなかった。

水がどこにあるか分からない。高野はトイレの手洗い用のベイスンの上にある蛇口からの水を飲んで済ませた。ミネラル・ウォーター以外の水を口にするのもずいぶん久しぶりのことだ。ましてやトイレの手洗いの水を飲んだことなど、ごく若かった時代の二日酔いのとき以来だった。

ベッドに戻ると、時間を稼がなくてはと思う。薬が効いてくるには一定の時間が必要だと聞かされていたのだ。たぶん30分か1時間。長い、長い。

「ここも会社のもの?」

「ええ。でもどうして?」

「社外取締役は24時間勤務だからね」

「そう。

じゃあ、こうして男性と二人でいる部屋を会社名義にして、管理費も掃除代も家具もなにもかも会社の経費にしているオーナー会長は、どうみえるかしら?社外取締役さん」

紫乃がいたずらっぽく笑う。

「公私混同が目に余る。だから、共同して公私混同をしている社外取締役は直ちに辞任します」

高野が真面目ともつかず言うと、紫乃は、

「ダメ。

安心してらして大丈夫。ここ、明日、私が個人で会社から買い取ります。もちろん、マーケット・プライスで。

未だ少数株主さんのことのご相談がいっぱいあるので、辞任は許しません」

と言いながら、仰向いた高野の唇に上から重なるようにして自分の唇を重ねた。

「とっても柔らかいのね」

満足気な声を出すと、ベッドに並んで横になった。

(いったいこの女性は、分母が何人あるがゆえに俺の唇が柔らかいという統計的な結論が導き出せたのなのか。

いずれにしても女はどれも同じ。

しかし、微妙などこかの違いが目の前の特定の女のいとしさを際立たせる。

と言ってみても、そいつはしょせんこの俺自身のナルシシズムかもしれない。男と女は、どんなに愛し合っていても、分かりあうことはできないままに死ぬしかない)

結局その日、高野は紫乃と結ばれることはなかった。

(彼女と溶け合うはずだった。海と溶け合う太陽。若いころ、なんどもそうしたことがあった。あのころは、陽がまた昇るように、海に沈んだ太陽はまた、何回もきりなく昇るものだとしか思わないでいた。時には一日に何度も昇ったものだ。

あれから何回太陽が昇ったことか。

しかし、今日は昇らなかった)

 

待たせていた帰りの車の後部座席にゆったりと座り、高野はさきほどの紫乃とのときを思い返していた。

(なにもなかったから、こうして落ち着いて自宅に帰ることができる。英子に会えば抱きしめることすらできるだろう。

良かったということになるのか。

それにしても、あの女性はなぜあれほどに俺を?

ストックホルム症候群か?

そうかもしれない。彼女は俺の社団法人に夫を奪われてしまったようなものだ。その上、夫は実は彼女の思っていた夫ではなかったと無理やりのように知らされた。そのきっかけは俺だ。

いや、すべては三津田作次郎なのだろう。20歳の彼女に57歳で男女関係を教えた男。別の男のところへ去り、戻ってきた彼女に会社を贈り物にしてしまった男。俺が作次郎に似ている?なんの意味もないのに、人は声や顔が似ているとなにかを錯覚する。デコイか。

 

紫乃と高野は、ひと月に一度は二人だけで夕食をとるようになった。

店は高野が指定することもあれば紫乃が探し出してくることもある。代金は高野が払う。食事が終われば、決まったルールのように赤坂新坂のマンションに向かう。高野に他での夕食の約束があるときには、紫乃が先に行って待っていることもある。ときには柴乃が簡単な食事を作ってくれるということもあった。

いずれにしても、高野が薬を使うことはない。唇を合わせることもある。抱き合うこともある。手が触れれば、そのままにしていることもある。しかし、それ以上のことは起きない。高野が動かない以上、柴乃も悟ったか、彼女から動きだすことはない。

高野は、あの夜の帰りの車のなかで感じた解放観が忘れられなかったのだ。虎口を脱して、辛うじて罪なくして帰宅することの愉悦が、車が自宅に近づけばちかづけば近づくほど体中に湧き上がってきたのだった。

(危ないところだった。

大津柴乃と深い仲になれば、次に会うことが義務になる。なれば、結局自分の生活の平安を乱す者として紫乃を逆恨みすることになる。身勝手な男?今に始まったことではない。

つまりは、なにが己の人生のなかでの優先事項かという問題なのだ。そう整理してしまえること自体が、もう若さが俺のなかから完全に消えてしまったということなのだろう。昔は自分で自分を制することなどできなかったのに)

高野には自分で自分が不思議でならなかった。

(遂に俺は俺の体のなかにあった性の衝動という奴を飼いならしたのか。いや、単に歳をとっただけなのか。

「70歳になると底流にいつも性欲があった世界を離れたような解放感がある」と山田太一が書いていたっけな。

なんにしても、単なる茶飲み友達でいけない理由はない。社外取締役たる男には、なんともふさわしい役回りだ。そのうちにそうでなくなるかもしれない。それはそのときのこと。

たぶん、彼女も高野との性関係を強く望んでいたのではないのだろう。

大事なことは、高野がすがりついても良い男だと確認すること。

それが、夫をただの使用人としてしか見てこなかったオーナー社長の行きついたところだったのではないか。女は男の求めに応じることで男を引きつけておくことができると信じるもの。男が望めば体を開く。しかし、その男がもう役立たずだということは、案外もっけの幸いだったのかもしれない)

高野がああでもないこうでもないと考えを弄んでいると、小さな花柄模様を散らした木綿のワンピースに着替えた柴乃が、お盆を持って現れた。

「おや、素敵な花の乱舞だ。最近は花柄が流行っているらしいね」

「ありがとうございます。あなたにそう言っていただくととってもうれしい。

今日は、『茶々の間』で秋津島というお茶を仕入れてきました」

テーブルのうえに和田多式常滑の、緑色をした薄い急須が置かれ、揃いの印花模様の小さな煎茶茶碗が二つ、寄り添うように並んでいた。紫乃が椅子に座ったまま両手を差し上げて急須を傾けながら、

「東京で一番美味しいチョコレートをご存知?」

と問いかけるように微笑んだ。

「ほう、メゾン・ド・フランスじゃなさそうだね」

「うわあ、うれしい。高野さんでも知らないことがあるのね。

『ラ・ヴィ・ドゥース』というお店。愛住町っていう素敵な名前の町にあるの」

高野は知っていた。妻の英子がシェフの堀江新さんと親しく、いつも贈り物にはこの店のチョコレートに決めているのだ。しかし、高野は黙っていた。

柴乃は高野の知らない店の自慢ができるのがよほどうれしいらしく、饒舌だった。

「堀江さんていう方なの。イケメンで恰好いいのよ。ここのアールグレイとグランカカオが好き」

「ラ・ヴィ・ドゥースって『甘い生活』っていう意味だろう。イタリア映画がなかったっけ、フェリーニの」

「それ、違うの。それは、ラ・ドルチェ・ヴィータっていうらしいわ」

「そうか。フランス語とイタリア語の違いか」

「あそこ、ショーケースの向こうに素敵なカウンターがあって、そこに座ると通りを歩いている人が間近に見えるの」

「ふーん」

「こんど一緒に行きたい。二人で座って、並んで外を眺めて、外から二人を眺められて」

高野は心が痛かった。そのカウンターには英子と座ったことがあるのだ。向かいのマンションのデザインが変則的で変わっているという話もそのときに英子とした。

「そうだね」

そっけない返事しかできなかった。柴乃は、

「お忙しいですものね。でも、もし機会があったら」

と言っただけで、話題を変えた。

「私、前にお会いしたときからずっと、少数株主になにをしてさしあげなくてはならないのかを考えていました。

私の株が51%。少数株主さんたちが49%。資産が時価で100億、年間の純利益が2億。配当は長いあいだ年に1000万円。

どうしたらいいのでしょうか?」

「ディスカウント・キャッシュ・フローで行くと、まあ全体でムコージマの価値というのは50億かな。不動産会社の賃貸会社だから、資産ほどの収益性はなくて当たり前でしょう。

配当を増やすか、自己株取得をするのか」

「正直なところ、自己株取得はしたくないの。そんなに現金はありませんから、そうなるとビルを売らなくちゃいけないことになります。法人税がもったいない。」

「ダンゴ屋さんの話、した?」

「え?『まめ』?」

「いや、違う。何代にもわたってダンゴ作りに精出してきたダンゴ屋さん。

近所の評判のいいのはもちろんのこと、電車に乗って買いに来る人もたくさんいる。味がいい。餡がいい、季節になるとよもぎの香りがいい。

小さな店だけど、世の中の役に立っている。

主(あるじ)も、私は金のために働いているのではありません。お客さまから『やっぱりここのダンゴは格別だね』と言っていただくと、それがなんともうれしいだけでしてって」

「へえ、どこにあるの?教えて。私も食べてみたい」

「僕も食べてみたい。銀座にある」

「じゃ、さっそく」

「そうは行かない。僕の頭のなかの銀座にしかないから」

「どういうこと?」

「非上場会社、同族会社の架空の例さ。銀座の花椿通りにあって、ほんの15坪の土地、と言っても借地だがね、そのうえに2階建ての自宅兼お店が建っている。木造モルタルの昔よくあった商店だ。ビルの谷間にあって、その一軒だけ櫛の歯が折れたみたいだ。土地の値段は15億近い」

「ほんとね、銀座にはそんな店が残っていそう」

「最近の銀座では路面店ていうのかな、ビルでも1階部分の家賃がとんでもなく高い。坪が月当たり40万もすることころもある」

「本当にそのダンゴ屋さん、15億の土地の上でダンゴを作ってるんだ。お高いんでしょうね」

「いや、その店のダンゴは高くない。1本100円とかそこらだ」

「えーっ、そんなに安いの」

「あなたが都心の土地の値段に毒されているからそう思うのさ。

オヤジさんは、

『祖父が始めたときには回りはみんな似たような店ばかりでした。下駄屋も街の電気屋もありました。どれもみんな住まい兼用で、それはそれは楽しいお付き合いでした。

でも、戦争が終わって、高度成長っていうんですか、それで少しずつ変わってゆきました。

最後にバブルが来て、周り中が絨毯爆撃されたみたいになってしまって。誰も、なにも悪いことなんてしていないのに。

私のところは、私がこんな頑固者だし、幸い息子も後を継ぎたいと言ってくれてますしね。

私?私はばあさんと二人ですからお金なんてほとんど要りません。固定資産税も高くなったし、会社は大変です。ですから、私はほとんどすべてを会社に残すようにしています。最近は法人税が安くなりましたし、助かります。』

そう言っている」

「いいお話ねえ」

(20章「鶴の恩返し」の続き。22章に続く。初めから読みたい方はこちら) 

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この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ1975年:東京大学法学部卒業1977~1979年:検事(東京地方検察庁他)1979~1985年:弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事。)1985年~:牛島法律事務所開設2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更(現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士51名(内3名が外国弁護士)<専門分野>企業合併・買収、一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。

牛島総合法律事務所「少数株主対策チーム」 URL: http://unlistedstock.jp/

 

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牛島信

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