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.国際  投稿日:2017/6/27

朝鮮戦争から生まれた「主体思想」 金王朝解体新書その6


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・1953年7月27日の朝鮮戦争休戦は、終戦ではない。

・休戦後、北朝鮮は、チュチェ(主体)思想という鎖国政策を提唱

金日成も3世代世襲は考えていなかった、と伝えられている。

 

 朝鮮半島を巡る情勢が大きく動いたのは、1953年3月5日、ソ連の独裁者スターリンが死去して以降である。

簡単に復習をしておくと、1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破して戦端が開かれたが、同年9月15日、米軍がインチョン(仁川)上陸に成功し、大規模な反攻が始まった。

10月20日、米韓軍を中心とする国連軍は、ピョンヤン(平壌)を占領。半島全域を「武力統一」する寸前まで行った。

ところがここに、中国からの義勇軍が参戦し、さらには当時最新型のソ連製戦闘機ミグ15が登場したこともあって、形勢は再度逆転。

12月15日にはピョンヤン、1951年1月4日には、またしてもソウルが共産軍の手に落ちることとなった。

その後、ミグ15に勝るジェット戦闘機F86Fをはじめ、新兵器を大量投入した国連軍が、じりじりと共産軍を押し戻し、3月14日にはソウルを奪還。さらに38度線付近まで北上したところで、膠着状態となる。

理由はふたつあって、ひとつは両軍ともに補給などの面で限界に達し、前線の兵士達も、先の見えない長期戦から厭戦気分が見られ始めたこと、いまひとつは、ソ連の働きかけで休戦に向けた話し合いがもたれるようになったことである。

この時の交渉自体は、条件面での折り合いがつかなかったのだが、前述のようにスターリンが世を去って以降、状況が大きく変わった。

後継者となったフルシチョフは、破滅的な第三次世界大戦を避けるべく「平和共存路線」を打ち出し、デタント、雪解けなどと称される状況を生み出した。

冷戦構造自体が変わることはなかったものの、米ソが正面切っての軍事的衝突に至る可能性は、ひとまず遠のいたのである。

朝鮮半島においても、両軍がほぼ当初の国境、すなわち北緯38度線付近で睨み合う形となっていたことから、この状況を固定化しての休戦が成立した。1953年7月27日のことだが、シリーズ第1回で述べた通り、あくまでも休戦であって終戦ではない。

いずれにせよ、この戦争が後のアジア情勢に与えた影響は、実に大きなものであった。

まず、中国が義勇軍を派遣した理由だが、これは毛沢東ら当時の指導部が、

「政治的・経済的・軍事的に米国の大きな影響下にある統一朝鮮」

が出現するのを嫌ったためである。

読者ご賢察の通り、現在に至るもこの論理でもって、中国は北朝鮮の命脈を絶つことまではしないだろうと考えられているわけだが、1950年代には、より深刻に受け取られていた。

と言うのは、中国と朝鮮半島の国境線はかなり長く、その国境地帯から東北部一帯には、朝鮮族の人々が数多く生活している。台湾の国民政府も「大陸反攻」を唱えており、東北部が一挙に不安定になった場合、北京は南北から挟撃されかねない、と考えられたのだ。

その後の平和共存路線に対しても、中国の態度は冷淡であった。

要は冷戦構造の固定化で、すなわち「ふたつの中国」を是認するものだというわけである。

これがその後の中ソ論争、さらに中国共産党の内部においては、フルシチョフ路線を支持する実務派と、毛沢東らの間で対立が深まり、ついには文化大革命という大規模かつ過激な権力闘争に発展する。

一方キム・イルソンだが、この戦争の顛末から、ソ連を頼りにしたのは誤りだった、と考えるようになったらしい。

休戦成立以降、チュチェ(主体)思想という、よく言えば独自の一国社会主義、客観的に見れば大時代な鎖国政策を提唱するのである。

たしかにスターリンは、国連軍がピョンヤンを占領した時点で、北朝鮮による「南進統一」を支持したのは誤りだったと認め、朝鮮労働党はひとまず北京にでも「亡命政府」を作って他日を期すのがよい、との構想まで披露したと伝えられる。

その後、1970年代にキム・イルソンがモスクワを訪問した際、クレムリンの党官僚たちは、彼のロシア語と軍事知識に感嘆した、という話もある。

もともと彼は赤軍大尉だったわけだから(シリーズ第1回を参照)当然だが、ここで注目すべきは、1970年代のクレムリンにおいては、キム・イルソンを詳しく知る人物などいなくなっていた、ということである。

そのようなソ連だったが、キム・イルソンの後継者として長男のキム・ジョンイル(金正日)の名が浮上した時は、不快感を隠そうともしなかった。社会主義国で権力の世襲とは、なにを考えているのだ、というわけだ。

言われてみれば、スターリンはナチス・ドイツ相手の「大祖国戦争」において、毛沢東はすでに述べた朝鮮戦争における義勇軍派遣に際して、いずれも息子を一兵卒として従軍させている。

ご承知のように冷戦は1989年に終結し、1991年にはソ連が崩壊するのだが、ちょうどその時期から、北朝鮮においては、権力の世襲が具体的な準備段階に入ったのである(キム・イルソンは1994年に死去)。

しかしながらキム・イルソンも、3代世襲までは考えていなかった、とも伝えられる。

次回は、その話を。

(本記事は、その1その2その3その4その5の続き。その7に続く)

 


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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