[久保田弘信] 【イラクの戦後を報道しなかった大手メディア】~「サダム・フセイン時代の方が良かった」~
久保田弘信(フォトジャーナリスト)
2003年3月に始まったイラク戦争、日本の報道機関はイラクの戦後報道をかなりサボっていたと思う。自衛隊がサマワで人道復興支援を行なっているころまではイラク関連のニュースが頻繁に報道されたが、自衛隊がイラクから撤退すると共にイラク関連のニュースは激減してしまった。
この間、イラクにトピックとなるニュースがなかった訳ではなく、反米武装勢力の勢力拡大、自爆を含む市民を巻き添えにしたテロ事件等トピックには事欠かない状態だった。通常、戦後の治安は時と共に安定化してくものだが、イラクの場合は年月を経ることに治安が悪化していった。
マウントレバノンホテルに大量の爆弾を積んだ自動車が激突し米兵、イラクの一般市民共に大量の犠牲者が出た。
イラクの戦後統治に関して、国連を中心にすべきだ、という声が上がったが、攻撃に参加した英米を中心に行うと決定されてしまった。横暴な占領政策に対して反米感情が高まり、あちこちでトラブルが続出し始めた。
イラク人はいつ無実の罪で米兵に発砲されるかを怯え、米兵は親しく近づいてきたイラク人に攻撃される恐怖に脅えた。混乱の中、宗派間の対立が高まり、ファルージャ、ラマディー、そしてバグダッドの一部地域では自爆テロや戦闘の恐怖に脅える生活が始まってしまった。
イラク戦争の空爆の中でさえイラクに留まった人達が2006年、戦争中より酷い状況に堪え兼ねてヨルダンやシリアへ避難していった。その後、誰も戦後の混乱を止める事ができず、英米軍はイラクから撤退していった。
もとより、イラク軍、イラク警察には治安を維持する力はなく、英米軍の撤退を機にテロ行為はヒートアップしていった。2006年5月、戦後のイラク取材をする為に私はバグダッドに入った。バグダッド市内の雰囲気はがらりと変わっていて、あちこちに検問所が設けられ、ホテルや重要施設の前にはテロ防止の為に高いコンクリート壁が設置されていた。
自動車爆弾をさけるため、あちこちにコンクリートウォールが設けられバグダッドは歪な都市となっていった。
バグダッドでは比較的安全だと言われていたカラダ地区でさえ爆弾事件が頻発し、人々は安心して外を歩けない状況になっていた。
カラダ地区で出くわした武装組織。軍隊のようだが、制服はバラバラで全員が目出し帽を被っていた。戦争中、ホテルの地下シェルターに避難していた家族と再会した。次女のノサールは空爆で外出するのが怖くなってしまい、学校へも行けなくなってしまっていた。
母親は話す「サダムの時代は色々な自由がなかったけど、生きる自由だけはあった、こんな酷い時代がくるならサダムの頃の方がまだ良かったわ」と。多くのイラク人が「サダム時代の方が良かった」と話したが、イラク戦争を支持した日本のメディアがそれらを報道する事は稀だった。
※トップ画像:レバノン ⓒ久保田弘信
※文中写真一番上:戦後119 中:カラダ地区184 下:武装組織 すべてⓒ久保田弘信