[林信吾]【縄文回帰元年であれかし その1】~特集「2016年を占う!」日本史から学ぶ~
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
タイトルの通り、この一文は予測というより、私の願望である。日本の歴史区分でもっとも古いのは、縄文時代。およそ1万5000年ほど前から、2000年ほど前まで、1万年以上にわたって続いてきた。ただ、日本の歴史と言った場合、一部の専門の学者は別として、大半の人は、農耕が普及して古代国家が掲載されていった弥生時代から始まると考えていたに違いない。
私自身も、似たり寄ったりの歴史観を持っていたわけだが、今年11月に、NHKが放送した『アジア巨大遺跡』というシリーズを見て、欧米の考古学者が縄文時代に熱い視線を注いでいることを知り、目から鱗が落ちる思いだった。縄文時代が1万年以上も命脈を保っていたという事実は、欧米の考古学や歴史学の常識を覆すほどのインパクトを与えたのだという。
なぜならば、農耕を始めたことによって、人類は初めて耕地に定住し、文明を築くことができたのだと、これまでは考えられてきた。そして、それ以前の時代を生きた狩猟採集民は、要するに原始・未開であったとされていたのだ。
ところが縄文時代の人たちは、狩猟採集民でありながら巨大な集落を作って定住し、縄を使って土器に文様を施したり(これが縄文時代の語源)、ある時期からは漆を使って彩色したり、ヒスイのアクセサリーまで身につけていた。酒も造っていたらしい。
このように豊かで文化的な生活を可能たらしめたのは、言うまでもなく豊富な食料を得られたからだが、どうやらそれは、集落の周囲で栗の木を苗から育て、豊かな森に囲まれた環境を、計画的に作り出していたからだという。
そして集落の中には、これまた道路などのインフラが計画的に整備されていた。住居の中には、300人以上の収容能力がある、集会場らしき物まで見つかっている。
古代の遺跡というと、どうしても皆、ピラミッドや万里の長城に象徴される、巨大建造物を思い浮かべる。今でも見ることができる、という意味で、当然のことなのかも知れないが、どれも奴隷労働によって築かれたもので、別の言い方をすれば、富と権力の極端な集中がそこにあった。これまでの歴史学は、その側面にあまり注目してこなかったのだ。
どこで読んだか、今となっては正確に思い出せないのだが、高校生の頃、ローマの暴君ネロ(37~68)が、金銀で飾り立てた輿に乗り、エメラルドで作ったサングラスまで着用して巡幸していた頃、日本列島の住人は未だ竪穴住居で暮らしていた、という一文が頭の隅に残っている。
今思えば、西洋コンプレックスもここに極まれり、という話なのだが、当時は結構、感心して読んだものだ。皇帝の「文化的な」生活を労働力として支えた、無数の奴隷の存在など、まともに考えていなかったということだろう。
これに対して、自然と共存しながら、その恵みで自給自足の生活を成立させていた縄文時代の人たちは、たしかに巨大建造物や金銀財宝の類は残さなかった。そもそも貨幣経済など知らなかった。しかし、いや、そうであったからこそ、もしかしてそこには、大きな格差も侵略戦争もない、平和な共同体があり得たのではないだろうか。
いや、格差や戦争が本当に絶無であったとは、さすがに考えにくいけれども、日本列島の、生産性の高い自然環境を上手に生かしたなら、奴隷労働や侵略戦争は、そもそも必要性が薄いということは、充分に考えられることであるし、縄文時代の遺跡から大戦争の形跡が見て取れないのは、証拠のひとつと見なしてよいのではないか。
世界は今、自然環境のこれ以上の破壊や、格差による社会不安の増大は、人類の命取りになりかねないと、ようやく気づき始めた。かつて1万年以上におよぶ「持続可能な社会」を築いた日本人が、その精神を取り戻すことを通じて、地球環境を守りつつ文化的な生活を手に入れる、真のトップランナーの座に着くことはできないものか。
不可能ではない、と私は思うのである。
(【縄文回帰元年であれかし その2】~特集「2016年を占う」日本史から学ぶ~ へ続く。全2回)
※トップ画像:出典、新潟県立歴史博物館HP/縄文文化を探る