"Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]

「できれば最後は花蓮で逝きたい」失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ3 清水一也さん

野嶋剛(ジャーナリスト)

「野嶋剛のアジアウォッチ」

プロフィール:清水一也さん/1943328日生まれの73歳。花蓮港吉野村(現花蓮縣吉安郷)生まれ。父の清水半平氏は日本人移民村(吉野村)の村長を務めていた。1946年、3歳のときに花蓮港から鹿児島県加治木に引き揚げた。台湾の記憶はほとんどないが、家族と自分のルーツを探るため、定期的に花蓮を訪れている。現在は群馬県高崎市に在住。 

野嶋:清水さんは小さい頃、台湾から日本に引き揚げたわけですが、どんな状況だったでしょうか。

清水:子供の目線ですが、あえて台湾帰りであることを隠すことはなかったです。ただ、引き揚げてきた日本人は、大陸や朝鮮の方が圧倒的に多かったので、引揚者のなかで、私たち台湾組はひっそりと静かにしないといけなかった。郷里の高崎に戻って、最初は引揚者の寮を斡旋されました。でも、家族は数日でそこを出てしまい、田舎の親戚に頼って分散して暮らしました。たぶん、姉や父母、祖父母たちは、たいへん悲惨な状況で返ってきた他の引き揚げの人たちをみて、いたたまれなくなったのでしょう。台湾ではそういう厳しい引き揚げ体験をしたことが無いからです。

もちろん、終戦直後、中には罵声を浴びた日本人も居たようですが、満州・朝鮮引揚げのような事はなかった。ショックを受けたのではないでしょうか。祖父母も母も高崎が出身地だったので、頼る親戚があったのが救いでした。

野嶋:引揚者に対する差別を受けたことはありましたか。

清水:差別というかどうかは別にして、言葉の違いや日常生活、食生活の違いでバカにされたことはありました。使っている言葉が、日本人の言葉と先住民の言葉が一緒になっていたのです。おじいさんとおばあさんは先住民のアミ語で、少し記憶があいまいですが、確か「ラホヤ、ババヘイ」と呼んでいたら、学校で「ちゃんと、おじいさん、おばあさん」と言いなさいと怒られました。また、トイレに行くことも「パンサイ」と言っていましたが、すぐに使うのをやめました。ほかにも器をビンタン、また台湾ではヘチマは普通だったので、引揚げ後に自宅でへチマを栽培し食べていたら、近所の人から不思議がられましたね。

野嶋:台湾でのことで記憶に残っていることはありますか。

清水:私は幼い時期に引き揚げたので、台湾での記憶はほとんどゼロです。でも、日本に戻ってから毎日のように家族に台湾のことを刷り込まれて、彼らの記憶と自分の記憶がだぶっています。台湾は自分の生まれた場所であり、私は移民三代目で、日本の敗戦がなければ、そのまま花蓮にい続けるはずでした。家族もみんな、もちろん日本に帰ってきたくはなかった。現地で亡くなった父方の祖母や叔父・叔母たちの遺骨はみんな花蓮に眠っています。お墓は吉安(きつあん)の日本人墓地にありましたが、いまは墓石もありません。ぜんぶ撤去されて、道教の大きな墓地がその上に建っています。4年前に菩提寺のご住職と97歳の母を連れ、吉安郷でお墓前りと先祖法要をしました。

野嶋:皆さんは完全に「台湾の日本人」になっていたのですね。

清水:そうです。移民として、日本のわずかな財産を処分して、お墓も移して、台湾に根を張ろうとしました。祖父母の話では何回も日本に戻りたいと思った大変な時代があったそうです。最大の問題は台風などの風水害と風土病でした。私の祖母は父を生んだ後に風土病で亡くなり、乳飲み子を抱えての生活は苦難であり、その後に内地から妹を後妻として迎えた次第です。

祖父は農業移民で台湾に行ったのに、上陸した途端に移民指導所で書類の手違いにより開拓地が割り当てられず仕方ないので、最初に移民した人たちの仕事を手伝いながら、指導所にも勤務していたところ、郵便局員だった経験を買われて、吉野村郵便局長を任せられました。当初は郵便局では生活が出来ず、種苗と樹木栽培の兼業が許されました。日本で言えば造園業で、日本に戻ってからも造園業は続けています。祖父はその後農業組合組織を立ち上げ、村長も務めるという多忙な歳月の中で、官営移民吉野村の建設に従事しました。

野嶋:ご家族は皆さん台湾を懐かしがっていたのですか。

清水:両親も兄弟も戦後、台湾を何度も訪ねています。ただ、祖父は村民に対する申し訳なさをずっと引きずっていた。ですから、一度も台湾には戻りませんでした。そのかわり、祖父は同じ村の開拓民の人たちを回って激励や謝罪していました。というのも、開拓民の残留許可を昭和2012月当時の台湾のトップであった国民政府から任命された陳儀長官に対して、祖父は台北まで頻繁に陳情を重ね「開拓民はそのまま台湾に残ってよろしい」とお墨付きをもらいました。ですから、花連の仲間たちにそう伝えたのです。ところが昭和212月に突然帰国命令が出て、一切の生産設備は没収され、バタバタと引き払わされました。一般人は引き揚げる準備期間があり、財産の処分や整理が出来ましたが、開拓民は祖父の話を信じて準備していなかった。だから、皆に申し訳なかったのだと思います。

でも、ほかの家族はとても台湾を懐かしがっていました。いちばん日本で思い出して語っていたのは、自分たちの生まれた育った吉野村の近くにある山や海で、先住民のお手伝いさんや働き手たちと一緒に狩りや海釣りを楽しんだことです。休みの日にはいつも一緒に出かけていたそうです。

野嶋:いま、清水さんが台湾に通っている理由は何でしょうか。

清水:60歳を過ぎたときに前立腺がんに罹りました。入院して手術し、無事にがんを摘出できましたが、父もすでに亡くなっていて、あとは残された人生で何をするのかと考えました。そこで、自分たち家族の台湾時代のことを記録しておかないときっと将来誰も分からなくなると思ったのです。それで、今から78年前から通うようになり、やがて、当時の戸籍などを本格的に調べるようになりました。

台湾は訪ねるたびに新しい事実がどんどん出てくるのです。私の戸籍や叔父・叔母の戸籍、そこに記載されている人たちの流れがよくわかりました。日本の戸籍では、そこまで詳しく書いていませんが、台湾では戦前すべての家族・親戚関係が書き込まれています。それが台湾各地の「戸政事務所」という行政機関にいまも保管されているのです。現在の花蓮の日本人会の会長さんなどにサポートしてもらい、事務所に通っているうちに馴染みになるので、すぐにいろんな方のものを出してくれる。そうこうしているうちに、私たちが日本に引揚げて当然親しい親戚だと思っていた人が実は親戚じゃなかったとかも分かったりしました(笑)。

野嶋:当時の台湾は日本に比べても豊かだったのでしょうか。

清水:台湾での給料は教員も公務員も手当が内地の約1.6倍でした。それは確かに大きな魅力だったようです。また、私たちのような吉野村開拓民が台湾でそれなりに豊かになったのは昭和78年ぐらいからでしょか。烏山頭ダムの機材が払い下げられたお蔭で、インフラや灌漑が整備され、生産が増大しそれまで背負っていた負債を返済し、だんだん余裕が生まれてきたそうです。

野嶋:ちょうどこれから、という時に台湾での生活が打ち切られてしまった、というわけですね。清水さんにとって、花蓮という土地、台湾という土地はどんな意味を持っていますか。

清水:やっぱり私たちの故郷です。できれば長く滞在したいと思います。永住は難しくても、ロングステイはしたい。私はいま73歳。台湾ではこの吉野村がナンバーワンです。

現地に日本人のシェアハウスみたいなのがあればいいなあとも思います。夏は暑いし、住んだら大変かも知れないが、やっぱり、できれば最後まで花蓮で、と思うようになっていますね。

(このシリーズ了。全3回。シリーズ1シリーズ2

台湾ドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」監督:ホァン・ミンチェン が11月12日より東京・岩波ホールで日本公開。

トップ画像:清水一也さん©野嶋剛

文中画像:清水さんの家族©野嶋剛