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スポーツ  投稿日:2018/11/1

プロレスの味方は、いたしかねます(下) スポーツの秋雑感 その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

 

【まとめ】

・プロレス発祥に諸説。カネ賭けた格闘スポーツ観戦は古代から盛ん。

・健康増進や精神修養こそスポーツ。プロレス見ても心身は鍛えられない。

・サーカスと同列のエンタメ公言し派手な技で観客楽しませてはどうか。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depth のサイトでお読みください。】

 

 プロレスの歴史は、実はアマチュア・レスリングより古い。19世紀に英国で、レスリングの賭け試合が盛んに行われ、その試合形態がフランスに伝播してレスリングのグレコ・ローマンスタイルとして近代オリンピックの種目に加えられた、という経緯がある。

 

 グレコ・ローマンとは、読んで字のごとく「ギリシャ・ローマ式」という意味で、下半身に対する攻撃、および脚を使っての攻撃を禁じている点で、フリースタイルと区別される。ただ、その名称とは裏腹に、古代ギリシャ・ローマとはまったく関わりがなく、前述のように、18世紀の終盤から19世紀初頭にかけての時期、フランスで編み出されたものだ。

 

 古代ギリシャ・ローマで行われていたレスリングは、むしろ格段に荒っぽく、足蹴りや関節技が多用されていた。その後、ヨーロッパ各地でフォーク(民俗)レスリングが行われるようになったが、危険度の高いサブミッション(関節技や締め技など)は、自主規制されるようになったらしい。

 

 しかし、イングランド北西部のランカシャーでは、サブミッションを認めるスタイルが伝承され、俗に「キャッチ・レスリング」と呼ばれていた。本当はこちらがプロレスの起源で、今もヨーロッパではプロレスのことを「キャッチ」と呼ぶ例が多いのはその証拠である、と考える人も結構いる。

 

 もうひとつ、19世紀後半から、米国南部で盛んであった「カーニバル・レスリング」が起源である、と見る向きも多い。サーカスの見世物の一種として行われた賭けレスリングの興行だが、米国では今もプロレスという単語はなく、単にレスリングと呼んでいる。なんでも、ラスリンと南部訛りで発音するのが「正調」なのだとか。

 

……ここまで来ると、もはやどうでもいいわ、という気分になってしまうのは、私一人ではあるまい。カネを賭けて格闘スポーツを観戦する行為は、それこそ古代ギリシャの昔から盛んだったと記録されているし、中南米の古い文明でも(文字がなかったから記録がないだけで)、おそらくあったことだろう。

 

 いずれにせよ、20世紀に入ってからは、起源はどうであれプロレスの本場と言えば米国だ、ということになっていた。20世紀初頭には、日系人のレスラーもいたことが、資料で確認できる。

 

 わが国においては、力道山がデビューした1951(昭和26)年を「プロレス元年」と定義する人が多い。戦前にも「職業レスリング」や「西洋相撲」の興行があったものの、いずれも失敗に終わったらしい。

 年配の読者の中には、力道山については私などより詳しい方もおられるだろうか。大相撲で関脇まで昇進したが、相撲界との軋轢に耐えかね(一門の内部対立が原因とも、在日コリアン差別が原因とも言われる)、大関取りを目前にして廃業。プロレスラーに転向した。

 

写真)力道山(1954年12月)

出典)Public Domain(Wikimedia Commons)

 

 1953年に日本プロレスを旗揚げして、米国から幾人ものレスラーを招聘したが、当時(元号で言うと昭和30年代)急速に普及しはじめたTV中継が大人気を博した。戦後の焼け跡から復興を果たし、高度経済成長へと向かっていた時期、二回りも大きな米国人レスラーをなぎ倒す力道山の姿は、大いなるカタルシスとなったのである。

 

 例によって余談にわたるが、彼は前述のように元力士で、空手を学んだ経験などはなく、代名詞となった「空手チョップ」も実は相撲の張り手の応用であった。もうひとつ、現在公開されているデータによれば、力道山は身長176センチ、体重116キロ。日本プロレス時代は、身長180センチとサバを読んでいたとか。

 

今では、レスラーとしてはかなり小柄な部類に入るし、相撲界にあっては完全な「小兵」だろう。しかし、当時の日本人の目には、これでも堂々たる体躯に見えたのである。力士の大型化が急速に進んだのは、1980年代以降の話だ。ただ、力道山が図抜けて頑健な肉体の持ち主であったことは事実で、その頑健さに対する過剰なまでの自信が、最後は命取りになった。

 

 1963年の暮れに赤坂のナイトクラブで、居合わせた暴力団員と、足を踏んだ踏まないのトラブルのあげくナイフで刺され、入院した。手術は成功したにもかかわらず、医師の指示を無視してすぐに暴飲暴食し、最終的にはそれが原因で亡くなった。1963年12月15日没。享年39。

 

 これ以前にも酒の上でのトラブルを頻繁に起こし、しかも相手が暴力団員というケースが多かったため、自宅や車の中に複数の猟銃を置いていたという。当時のプロレスの興行には、暴力団が深く関わっていたため、一緒に酒を飲んだり、飲食店で顔を合わせたりすることもよくあったため、彼自身の酒癖の悪さから、トラブルの種には事欠かなかった、と伝えられている。

 

 要するに、スポーツマンとして青少年の手本になるどころか、「よい子は真似しちゃいけません」と言いたくなるような生き方をしていたわけだ。まあ、亡くなった人はもはや反論も弁明もできないので、執拗に書きたてる気にもなれないが、イジメの常套手段として「プロレス技をかける」ということになるのも同根の問題であろうと、私は思う。

 

 私が「プロレスの味方」をする気にはなれない理由も、これでお分かりだろう。健康増進や精神修養に効用があってこそのスポーツや武道であるのだが、プロレスをいくら熱心に見ても、心身が鍛えられるわけではまったくない。特に私など、打撃を手加減しているかどうか、見ればすぐに分かるので、観戦スポーツとしても楽しめない。

 

 いっそ、サーカスと同列のエンターテインメントだと公言して、見かけだけ派手な技の応酬で観客を楽しませてはどうか。それこそがプロレスの原点なのだから。

 

トップ写真)プロレス技のドロップキック 

出典)Jjron (Wikimedia Commons)


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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