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.国際  投稿日:2019/7/5

IRAの真の姿とは 悲劇の島アイルランド その5


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・アイルランド人自治拡大に伴い、プロテスタント系住民が反発。

・アルスター義勇軍への対抗で結成、カトリック系「アイルランド義勇軍」。

・IRAはテロ集団ではなく、選挙を含めた大衆運動を並行して進める路線だった。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=46680でお読みください。】

 

IRA(アイリッシュ・リパブリック・アーミー)は、アイルランド統一を目指すカトリックの過激派組織で、名称は一般に「アイルランド共和軍」と訳されている。「共和国軍」との訳語もあったが、これだとアイルランド共和国の軍隊とまぎらわしい、という理由で、用いられなくなったようだ。

もっとも、アイルランド共和国の国防軍も、独立戦争(1919〜1921年)当時はIRAを名乗っていたので、一段と話がややこしい。つまり、IRAという名称は多くの組織によって用いられてきたし、今も一枚岩の組織ではないということを、知っておく必要がある。

アイルランドのカトリック系住民は、英国による支配と、その結果としての差別待遇に抵抗を続けてきたが、それが武装闘争にまで発展したのは、19世紀後半のことである。

マルクスの『共産党宣言』が世に出たのが1848年のことだが、前後してフランス、ドイツ、イタリアなどで、産業革命の副産物とも言うべき貧富の差の拡大や、重税などに対して、民衆が武器を取って戦いを挑む、という事態が繰り返し起きていた。英国だけが平穏無事でいられるはずもなかったのだ。

▲写真 カール・マルクス 出典:Wikimedia Commons; public domain

英国政府は当初、ヨーロッパ大陸におけるカトリック勢力が国防上の脅威であった時代は過ぎ去った、という認識に基づき、アイルランド人の自治拡大を通じて、穏便に事を収めようと考えていたらしい。

ところがこの動きに対し、現地アイルランドのプロテスタント系住民が反発した。

本シリーズですでに見てきた通り、アイルランド島全体ではカトリック人口が優勢だが、北部のアルスター地方では、主としてスコットランドから移住してきたプロテスタントが経済的実権を握り、支配階級と言うべき地位を築いていた

アイルランド人の自治拡大と言うことは、最終的には一人一票の選挙を通じた議会政治がこの島に持ち込まれるということであり、そうなれば人口においては少数派である自分たちの既得権はまったく保証されなくなるーーこのように考えたプロテスタント系住民の中から、カトリックへの「無分別な権利拡大」には、たとえ武力に訴えてでも反対する、という過激思想が誕生し、やがてアルスター義勇軍(アルスター・ボランティア・フォース。以下、略称UVF)」が旗揚げされる。

▲写真 「アルスター義勇軍」 出典:Imperial War Museums

このUVFが、カトリックの独立運動家にテロを加えるなどしたことから、対抗上、カトリック系住民も武装組織を持つこととなった。こうして結成されたのが「アイルランド義勇軍」である。

日本では、英国の支配に抵抗したカトリック系住民の中から、過激派がIRAを名乗ってテロに走ったのだろう、と考えている人が多いようであるが、事実はやや異なる。プロテスタント系住民の方が、先に武器を取り、UVFを組織したのだ。

いずれにせよ、アイルランド義勇軍は1916年、ダブリンにおいて武装蜂起する(世に言うイースター蜂起)が、一般市民の支持を集めることができず、わずか6日間で英軍により鎮圧されてしまった。しかし、義勇軍の指導者たちが、軍法会議で即時銃殺という刑に処せられたことから、急に市民の間で同情的な声が高まったのである。

この流れに乗って、もともと蜂起には消極的であった穏健派が勢力を伸ばし、前回触れたように政治部門がシン・フェイン党、そして軍事部門がIRAを名乗ることとなった。

つまり当初は穏健派と目されていたのだが、やがてIRAの内部では、

「デモや大衆運動だけでは埒が明かない。イースター蜂起において、多数の一般市民を巻き添えにしたことは反省すべきだが、武装闘争そのものまで否定すべきではない」と主張する者が増え始め、IRA暫定派を名乗って、組織内の多数を占めるまでになった。前述のように、アイルランド独立運動の歴史の中では、いくつもの組織がIRAを名乗って活動したが、1970年代以降、激しい反英テロ活動の代名詞となったのはこの組織で、以降、単にIRAと呼ぶ場合は、暫定派を指すのが通例となった。

実際に彼らのテロ活動はすさまじく、1979年には王族(ジョージ6世の従弟で、最後のインド総督であったマウントバッテン伯爵)を、ヨットに仕掛けた爆弾で暗殺し、1984年には、保守党大会が開かれていたリゾート地ブライトンのホテルを爆破した。この時は、当時のサッチャー首相は九死に一生を得たものの、議員や党職員など5人が死亡、30人以上が負傷している。

▲写真 マウントバッテン伯爵 出典:Wikimedia Commons; Allan warren

こうしたテロを擁護する考えは毛頭ないが、IRAは単なるテロリスト集団ではない、ということも見ておく必要があるだろう。

まず第一に、彼らの路線は当初から「アーマライト銃と投票箱」

というものであった。アーマライト銃とは、ヴェトナム戦争などで米軍が使用したM16自動小銃の通称である。いわゆる軍事オタクの間では、たしかにアーマライト社の主導で設計されたものの、実際のメーカーはコルト社なので、厳密には誤った呼び名である、とされているのだが、ここではその議論はひとまず置く。

IRA(=暫定派)がテロ路線に傾斜した時点では、最新兵器の象徴としての意味合いがあったものと思われ、こうした兵器をも駆使した武装闘争と、選挙を含めた大衆運動を並行して進める路線だったのである。

さらに言えば、米軍の下士官兵や警察官の中には、アイルランド系が締める確立が高いのだが、彼らの中にさえ独立運動へのカンパを続けていた者が少なからずいた。テロリストに同情的とまでは言わないが、過去に英国から受けてきた仕打ちを思えば……という「歴史認識」がそこにはあった、ということも、やはり見ておく必要はあるだろう。

次回は、テロと弾圧という憎悪の連鎖の中から、英国政府とアイルランド独立派、それぞれがいかにして現実路線に転換していったのか、その流れを見て行こう。

トップ写真:IRA「アイルランド共和軍」 出典:Flickr; National Library of Ireland


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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