「またしても」中止?(下)嗚呼、幻の東京五輪 その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・1940年の東京五輪は軍部の反対などで開催権返上。
・中国との戦争長期化で物資ひっ迫、各国からの開催地変更要求により1937年、開催権返上。
・1938年サッカーワールドカップ・仏大会も戦争により出場出来ず。
1940年9月21日から10月6日までの日程で行われるはずであった東京五輪については、多くの年表に「戦争のため中止」と記されている。
厳密に言うと、これではいささか正確さに欠ける表現で、東京は招致に成功したものの、軍部の反対など国内事情により開催権を返上し、あらためてヘルシンキが開催地に選ばれた。ところが1939年9月に第2次世界大戦が勃発したことにより、ヘルシンキでの大会も中止となってしまったのである。
実は「戦争のため中止」は、これが最初ではなかった。1916年にはドイツ帝国時代のベルリンで第6回大会が予定されていたが、こちらは第1次世界大戦のため中止となった。「幻の東京五輪」に続いては、1944年にロンドン五輪が予定されていたが、こちらも中止となり、戦争終結後の1948年に繰り延べされている。この時、敗戦国である日独は参加を認められなかった。
ただしIOCの規定では、戦争などの理由で中止となった場合でも、開催回数は第1回アテネ大会からの通し番号となるため、東京とヘルシンキはどちらも第12回大会の「みなし開催地」と記録されている。
前に、当時は夏季と冬季の五輪が同じ年に開催されることとなっていた、と述べたが、1940年の冬季五輪には札幌市が名乗りを上げ、こちらも誘致に成功していた。
つまり、1940年の五輪は、本来ならば夏季・冬季ともに初めて欧米以外での開催となっていたはずなのだ。
それがどうして「戦争のため中止」と記録されるに至ったのか。戦前の話ではなかったのか、と思う向きもあるかもしれない。
たしかに戦後生まれの多くの日本人にとって、先の戦争と言えば1941年12月以降の日米戦のことと認識されがちだ。太平洋戦争という呼称が、そのことを象徴している。
実はそれに先駆け、1937年より中国との間で、宣戦布告なき戦争状態に入っていた。
▲写真 上海近隣地区に展開した中国の精鋭部隊 出典:Photo album (between p. 144 and p. 145) in Peter Harmsen, Shanghai 1937: Stalingrad on the Yangtze, Casemate, 2013
この年の7月7日、北京郊外の盧溝橋という場所で起きた、偶発的な銃撃戦をきっかけに、たちまち戦闘が拡大したのだが、日中(当時は中華民国=蒋介石政権)ともに宣戦布告は見合わせていた。これは五輪とは関係ないが、当時すでに戦時国際法が制定されていたため、日本としては経済制裁を受けるリスクが、中国としても外国製兵器を入手できなくなるリスクがあったためだと言われる。
このため日本側では、当初は北支事変、後に支那事変と呼ぶようになった。
その後の経緯は昭和の戦史そのもので、とてもここで詳しく述べることはできないが、煎じ詰めて言うなら日本の思惑に反して、米国が経済制裁を課してきたことから、ついには太平洋における日米戦争に至るわけだ。
こうした背景から、当時の軍上層部は、五輪開催に対して、
「国富と人的資源の、壮大な無駄遣いだ」
と考えるようになっていったのである。政界においても、
「現在の一触即発の国際情勢に照らすと、五輪開催は適当ではない」
との意見が聞かれるようになった。その代表格が政友会の重鎮・河野一郎であったが、彼は戦後、池田隼人内閣で副総理・国務大臣(1964年東京五輪担当!)の座につく。ちなみに次男が河野洋平・元自民党総裁で、孫が河野太郎・防衛大臣である。
▲写真 河野一郎氏 出典:時事画報社「フォト(1961年6月15日号)」より。
いずれにせよ、当初は短期間で片付くと考えられていた中国との戦争状態が長期化し、鉄鋼をはじめとする戦略物資の需給がひっ迫してきた上に、国際的にも「事変」を理由に開催地変更を求める声が高まってきた。これを受けて時の近衛内閣は、1937年7月、正式に開催権を返上。これにより準備に費やされた100万円近い資金は無駄になった。
また、1936年のベルリン五輪で試験的に行われたTV中継を実用化できないかと、研究に着手していたのだが、この話も立ち消えとなっている。
ただ、東京ー横浜間の道路が整備されたり、勝鬨橋が建設されるなど、関連事業としての公共投資はインフラとして残されているし、駒沢のオリンピック村や、戸田漕艇会場は1964年東京五輪でようやく日の目を見た。
もうひとつ、戦争のせいで参加を見送らざるを得なかったイベントがある。
サッカーのワールドカップだ。
第1回は1930年ウルグアイ大会で、同国の独立100周年を記念して開催されたものだが、サッカーの本場と見なされてきたヨーロッパと、当時台頭著しかった南米が、交互に世界大会を開くことで切磋琢磨しよう、というのが、そもそもの趣旨であったと伝えられている。
ところが、この第1回大会が興行的に大成功した上に、世界大会と称しながらヨーロッパと南米にしか出場権がないのでは「看板に偽りあり」ということにならないか、との声も聞かれるようになった。この結果、第3回大会においては、初めてアジアにも出場枠1が与えられたのである。
奇しくも、フランス大会であった。
日本代表が初めてワールドカップ出場を果たしたのは、1998年フランス大会においてであったが、実は1938年フランス大会にも出場するチャンスがあったのだ。
チャンスがあった、というのは、出場するにはアジア予選を突破する必要があったからだが、この時アジアからエントリーしたのは、日本とオランダ領東インド(現在のインドネシア)だけであった。
当時の日本代表がオランダ領東インドに勝つことができたかどうか、これは専門家の間でも意見が分かれるようだが、私は個人的に「勝機は十分にあった」と考えている。
その根拠は、1936年のベルリン五輪において、早稲田大学の学生を中心とした当時の日本代表が、なんと優勝候補のスウェーデンを倒したからだが、このことだけをもって
「当時の日本サッカーはすでに世界レベルだった」
と考え得るほど甘いものではない。たとえこの時にワールドカップ出場を果たしたとしても、本大会でヨーロッパの強豪と当たったら、チンチンにやられたであろう(サッカーでは、一方的な試合展開になることを昔からこう表現する。誤解なきように笑)。
とは言え、現実の初出場より60年早く世界のサッカーを目の当たりにしたならば、日本サッカーのその後の歩みも、ずいぶん違うものになっていたことだけは疑う余地がない。
しかし、五輪の開催権返上とまったく同じ理由で、ワールドカップへのエントリーも取り下げざるを得なくなった。
戦争は、本当に多くのものを国民から奪う。感染症もまた。
トップ写真:中華民国国民革命軍の機関銃陣地 出典:Museum Syndicate
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。