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.社会  投稿日:2020/9/3

辞任と棄権とボイコット(下) 嗚呼、幻の東京五輪 最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・古代オリンピア競技会は「平和のために」スパルタ人の参加を制限。

・その平和主義に照らし「北朝鮮の五輪参加は拒否を」は正当性あり。

・日本の政治家は「五輪精神の偽善」を逆手に取るしたたかさを持て。

 

前々回、近代オリンピックが「国を挙げてのメダル獲得競争」の場と化したのは、第一次世界大戦後、1924年パリ大会から顕著になった傾向であったこと、その経緯は『炎のランナー』という英国映画のモチーフにもなったことを紹介させていただいた。

理由は単一ではないだろうが、英米仏、そして日本など戦勝国においてはナショナリズムが盛り上がり、その反面、近代戦の恐ろしさを思い知らされたヨーロッパ諸国を中心に、

「ナショナリズムのはけ口としての、戦争の代替手段」

が求められるようになってきたという要素を、見逃してはならないと思う。

かなり早い段階から「スポーツに政治を持ち込むべきではない」という理念など、本気にされていなかったのだ。

そもそも、前回述べた、黒人差別に抗議して表彰台でこぶしを突き上げた選手には追放処分を下し、1980年、米国(当時、レーガン政権)主導でモスクワ五輪ボイコットの動きが出た時には、なすすべがなかったというIOCが、偉そうなことを言うものではない、とさえ私は思う。

「政治的理由でボイコットした国は、二度と参加を認めない」

との声明でも出していたならば話は別だが。

もっとも、第二次世界大戦後初の1948年ロンドン五輪では、敗戦国である日独の参加を認めなかった「前科」があるので、これもこれで筋が通らないではないか、という批判を受けたかも知れない。

1980年代の記憶などないという、若い読者のために少しだけ解説を加えておくと、この前年、当時の社会主義政権の要請にこたえる形で、ソ連軍がアフガニスタンに「援助進駐」したが、米国はじめ西側陣営は、これを侵略と断じて、抗議の意思を示すため、モスクワ五輪をボイコットしたのである。多くのアスリートが、国の意向には逆らえないと、涙を呑んだ。

もちろん、ナショナリズムと言っても国によって温度差はある。英国では、種目ごとに市民からのカンパを募り、少なからぬ選手が「自主参加」すべくモスクワへ飛んだ。

そして次の大会、すなわち1984年ロサンゼルス五輪に際しては、今度は東欧共産圏が一斉にボイコットした。明らかに意趣返しだったが、ポーランドだけは「宗主国」ソ連の意向を無視して参加し、開会式では盛大な拍手を受けた。

この大会ではまた、野球が正式種目となったのだが、米国と台湾の試合の際、中国選手団が大挙して応援に駆け付け、その多くが野球のルールなど知らなかったと伝えられるが、台湾選手の一投一打に拍手を送り続けたのである。

当時はこれを、政治体制の違いを超えた民族の連帯感を示した美談として、日本のマスコミも好意的に報じていたものだが、今考えれば、おおかた中国共産党のプロパガンダの一環だろう。そもそも米国では人気のある野球で、多数のチケットが簡単に手配できるものかどうか。

早い話が、IOCという組織は「大国の意向」には逆らえないくせに、個々の選手、とりわけ有色人種に対しては、異様なまでに強圧的なのだ。

このようなことを述べると、ならばお前は、スポーツに政治を持ち込むことをよしとするのか、といった声が聞こえてきそうだ。私の答えは、

「時と場合で、そのような判断もあってよいと思う」

これである。

かねて私は、拉致問題を解決しないどころか非協力的でさえある北朝鮮に関しては、東京五輪に参加する資格などない、と主張してきた。これまたお約束で、スポーツに政治を持ち込むのはよくない、という反論にさらされるのが常だったが、古代オリンピア競技会の例を引いて私が再反論すると、黙ってしまう人も結構いた。

古代オリンピア競技会は、よく知られるように、すべての戦争を中断して開く「平和の祭典」であったが、パンクラスという種目に限り、スパルタ人の参加を認めていなかったのである。

▲画像 1915年に描かれた古代オリンピックの想像図 出典:flickr; Internet Archive Book Images

パンクラスとは、ギリシャ語で「すべての力」といったほどの意味だそうで、要するに総合格闘技である。前にプロレスの話をさせていただいた時に触れたが、レスリングで腰から下への攻撃を認めない「グレコ・ローマン(ギリシャ・ローマ風)スタイル」などというものは、実は19世紀にフランス人が編み出したもので、古代ギリシャ・ローマで行われていた格闘競技は、足蹴りや関節技を多用する、格段に荒っぽいものであった。

もちろん競技である以上、相応の手加減はあったはずだが、スパルタ人はこの点、例の「スパルタ式軍事訓練」を受けているものだから、首投げを仕掛けた際、そのまま倒れこんで相手の首の骨を折る、というような挙に出る。

こんな相手と試合をしたら、それこそ命がいくつあっても足りないし、競技で死傷者続出などということになったら、どこが平和の祭典だ、と言われただろう。この結果「スパルタ人は参加お断り」と決まったわけで、

「平和の祭典であればこそ、あまりに不穏当な人たちの参加は認められなかった」

というのが、歴史的事実なのである。言い換えれば、

「古代オリンピアの平和主義に照らして、北朝鮮の参加は拒否されるべきだ」

という主張にこそ、論理的正当性があるのではないか。

言うまでもないことだが、現実的可能性があるか否か、これはまた別問題である。

仮に東京五輪が開催できたとして、

「拉致被害者全員が帰国するまでは、北朝鮮代表の入国など認めない」

などと発表したら、韓国や中国がボイコットをちらつかせてくることは必定だし、

「日本はやはり差別主義が蔓延している」

などというネガティブな反応が広まって、日本外交が逆風にさらされる可能性さえある。

これまた誤解なきよう述べておくが、私がそれを是認しているわけではなくて、あくまでも国際社会の現実という問題の中で、そのことを述べているのだ。

それでもなお、安倍首相には最後のご奉公として、

「拉致問題解決までは、スポーツも含めて北朝鮮との交流は禁じられるべきである」

と一言述べて欲しい。

私は半島の人たちや、半島にルーツを持つ人たちに偏見など抱いていないし、日朝間の関係改善は望ましいことだと信じて疑わないけれども、すべては拉致問題の解決あってのことである。

ましてや、他国民を拉致するような国家の代表を、

「スポーツと政治は別もの」

などと言って歓迎するのは、偽善を通り越した国民への裏切りではないか。

IOCの掲げる五輪精神が実は偽善だということを知ったなら、それを逆手に取るくらいのしたたかさを、日本の政治家には求めたい。

(このシリーズこれで最終回)

トップ写真:聖火の採火式 出典:Pixabay


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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