無料会員募集中
.社会  投稿日:2021/6/30

フランスと中国の「革命」 それでも五輪は開催された その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・メキシコシティ五輪開催の1968年は各国で政治的動乱。

・日本では「運動」や「闘争」だが、仏中では「革命」と呼ばれた。

・高校生が政治参加。動乱は若者の意識を変えていった。

 

1968年は、世界各国が政治的動乱に見舞われた年であった。

前回紹介した、アフリカ系米国人による公民権運動ヴェトナム反戦運動をはじめ、日本でも東大や日大の学園紛争、それを牽引した全共闘運動、そして成田空港建設反対闘争など。

日本における反体制運動については後で述べるが、これらはいずれも「運動」か、せいぜい「紛争」「闘争」として報じられており、革命という表現はなされなかったということは、記憶されてよいと思う。

しかしながらフランスと中国における政治的動乱は、いずれも革命と呼ばれた。パリ五月革命文化大革命である。

時系列としては文化大革命の方が先で、1967年から70年代初めまでを「文革期」と呼ぶのだが、日本の若者文化に与えた影響という点では、やはりパリ五月革命に軍配が上がると思うので(序列をつける意味もあまりないとは思うが)、こちらを先に見ることとしよう。

シリーズ第1回で、国民の平均年収が1万ドルを超えると政治は静かになる、などと言われていると述べた。

貧困もある種の人権抑圧であり、政治の大きなテーマである、という考え方がその基礎にあったわけだが、1968年の日本やフランスは、第二次世界大戦後の復興から経済成長へと進んで行き、とりわけ日米仏など西側先進国においては、国民の生活水準が目に見えて向上してゆく時期だったのである。

このため、1968年の一連の政治的動乱については「豊かさの中の革命」と評されることもあるのだが、私見ながらこれは、半分正しく半分間違っていると思う。

パリの学生・高校生が反発した対象とは、フランスの伝統的な家父長制の文化であり、それを信奉する保守層によって支えられた、シャルル・ド・ゴール大統領の独裁的な政権運営であった。この動きに、経済成長に取り残された(自分たちの生活や労働条件は改善されていない)と考えた労働者階級の一部が同調して、単なる「学生運動」の域を超えた政治的動乱に発展したのである。

▲写真 リヨンを訪れたシャルル・ド・ゴール大統領(1968年3月24日) 出典:Alain Nogues / Sygma / Sygma via Getty Images

ちなみにド・ゴール政権に対する反発は、左翼よりも右翼の方がより過激であった。彼がアルジェリアの独立を認めたことに対し、元軍人を中心とする勢力が強く反発して、デモ行進どころか数次にわたる暗殺未遂事件まで起きた。これをモチーフに英国の作家フレデリック・フォーサイスがものした小説が、日本でも有名な『ジャッカルの日』である。

話を戻して、反ド・ゴールの学生・高校生らは、大学がロックアウトとなるや、市内のカルチェラタン(ラテン地区)で集会や無届デモを繰り返すようになった。その都度警官隊が乗り出したが、古くからの学生街であるこの地区では、活動家学生と一般学生を見分けることが出来ず、通りすがりの一般学生が警官に拘束されたり殴られる事件が頻発し、これがかえって反ド・ゴール派学生の数を増やす結果となった。最終的には、前述のように労働者も加わり、カルチェラタンの主だった道路にはバリケードが築かれ、警察が立ち入れない「解放区」が出現したのである。

読者ご賢察の通り、この頃から盛り上がってきた日本の学生運動でも、大学や街路をバリケードで封鎖する闘争スタイルがさかんに用いられたが、その源流はパリ五月革命に求められる。事実、同年6月には東京・神田駿河台の明大通りにバリケードが築かれ、警察機動隊と攻防戦が繰り広げられたが、学生たちはこれを「神田カルチェラタン」と呼んだ。

一方の、中国文化大革命は前年すなわち1967年から始まっていたが、毛沢東派の若者たちが「紅衛兵」を名乗って暴れまわる様子が広く世界に報じられるようになったのは、やはり1968年あたりからである。

▲写真 1960年代後半の文化大革命で、中国の国慶節である10月1日に天安門の外で行われた大規模なデモ。 出典:Getty Images

このように、アメリカ、ヨーロッパ、そしてアジアにまたがって大きな政治的動乱が起きていたのが1968年だったのだが、こんな意見も開陳されている。かいつまんで述べると、米国、フランス、そして中国における動乱は、それぞれ思想的・組織的に無関係なのに、マスメディアが、世界中が大変なことになっている、というイメージを広めたに過ぎないのだ、と。

これまた私見、半分正しく半分間違っている。

たしかに米国の公民権運動やヴェトナム反戦運動、フランスのパリ五月革命、中国の文化大革命は、それぞれ思想的・組織的に密接な関連性があったとは認めがたい。しかし、報道を通じて相互に大きな影響を与え合ったことは事実である。

マスメディアやその歴史を研究している人たちが、真摯に向き合うべき問題は、中国共産党内部の主導権争い、いや、有り体に言えば「内ゲバ」に過ぎなかった文化大革命の騒乱を

「革命を成し遂げた国で、新たな革命運動の火の手が上がった」

といったような、ある種ロマンティックな報じ方がなされたことではないか。それが主たる原因とまでは言えないにせよ、この文化大革命によって、西側先進国の左翼陣営の中に、毛沢東主義を標榜する勢力が台頭してくるのである。

再びパリ五月革命に話を戻すと、この動乱がド・ゴール退陣への道筋をつけた、という歴史観は正しくない。

「共産主義か、ド・ゴールか」

という保守派のキャンペーンが功を奏して、ド・ゴールは選挙を制し、権力の座にとどまったし、動乱そのものも2カ月を経ずして鎮静化した。このため今では、革命という表現もふさわしくないとして、単にMai68と表記するようになってきている。英語のMayと同じで、これ以上の説明は不要だろう。

ただ、若者の意識を変えていったという意味で、この動乱がもたらした影響は否定しがたく大きい。たとえば、それまで子供扱いされていた高校生が、この動乱を通じて、政治参加するのが当然という意識をはぐくんでゆくのである。

このように、1968年は「メキシコシティ五輪が開催された年」として語ることはとてもできないのだが、日本のメディアにおいては、政治的側面以外のところで注目されたいうことも、また事実であった。

パリ五月革命においては、女子高生も大勢デモに参加したが、パンツルックにベレー帽という、リセ(フランスの高校の通称)の女子生徒にとって定番の私服で、反ド・ゴールのポスターを掲げて行進する彼女たちの姿が、なんとファッション誌のグラビアを飾った。

英語圏のメディアでは「現代のジャンヌ・ダルクたち」という風に書かれていたようだが、わが国では「リセ・ファッション」なる造語が生まれ、米国東部の大学生のファッションを源流とする「アイビー」と双璧をなすまでになった。

アイビーの典型が、ブレザーにチェックのスカートというスタイルで、1970年代以降、全国的にこのスタイルが、セーラー服にとって代わって女子高生の象徴のごとくなって行くのである。

ちなみに男子学生も、10年ほどさかのぼった、世にいう60年安保闘争の当時は、詰襟の学生服でデモに参加する者が大半であったが、前述の「神田カルチェラタン」に参加した学生は、大半がジーンズを着用していた。学生服は、どちらかと言えば体育会系の右翼学生のファッションだと見なされるようになっていた。

進んで政治参加するのがフランスの女子高生なら、なんでもファッションの側面に注目するのが日本の……などとは言いたくないが。

(その3に続く。その1その2

トップ写真:1968年5月28日、パリで開かれたUNEF(フランス全国学生連合)の集会。同志の肩に乗って赤旗を振る若い女性も。 出典:KEYSTONE-FRANCE/Gamma-Rapho via Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."