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.社会  投稿日:2021/8/19

軍人と兵隊の差とは「戦争追体験」を語り継ぐ その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・旧日本軍の秩序には、階級社会、年功序列、学歴社会、の面があった。

・職業軍人を目指す理由には、衣食住の保障や、貧困からの立身出世も。

・昭和日本の貧しさは、兵士の戦闘スキルにも影響した。

 

前シリーズ(編集部注:「忘れ得ぬ一節、一場面」)でも少し触れたが、戦前の日本には徴兵制度というものがあった。

満20歳になった男性は徴兵検査というものを受け、兵役の義務を果たさなければならないとされていたのだが、その期間などは全員一律というわけではなかった。また、どこの国でも軍隊は厳然たる階級社会で、上位の者に「タメ口」などあり得ない。

一方、自ら志願して軍隊に入る人もいて、志願兵とか職業軍人と呼ばれる。現在の自衛隊を軍隊と見なした場合(どう考えても軍隊だと思うが)、100%職業軍人から成る軍隊だということになる。ちなみにボランティアの本来の意味は志願兵のことだ。

徴兵でも志願兵でも、最初は最下級の二等兵からスタートする。1998年に公開された『プライベート・ライアン』という戦争映画は有名だが、このプライベートとは二等兵のことである。『プラトーン』(1986年)も有名だが、こちらは歩兵小隊の意味だ。カンパニーという単語も、日本では会社の意味くらいにしか使われていないが、本当は「団結・結束」を意味する言葉で、軍事用語としては中隊の意味になる。

旧日本軍の場合、二等兵として入隊(正しくは入営と言ったらしい)し、一年後にはほぼ自動的に一等兵に進級し、一等兵の中で特に優秀な者は上等兵になれた。上等兵の上が伍長で、さらに軍曹、曹長と階級があって、ここまでが下士官と呼ばれる。

ただ、戦時になって下士官の数が不足してくると、上等兵の中からさらに優秀な者を選抜して、通常は伍長がこなす任務を与えられるケースがあった。伍長勤務上等兵もしくは見習伍長と呼ばれ、国によって違うが、多くの場合はこれも正規の階級である。

余談ながら、アドルフ・ヒトラーの軍歴について調べたことがある。日本では長きにわたって「伍長」とされていたが、どうやら伍長勤務上等兵であったらしい。旧日本軍にはこの制度がなかったので(代わりに兵長という階級があったが、数は少なかった)、誤訳が生じたのかとも思われるが、よく分からない。

話を戻して、曹長のさらに上は少尉で、ここから将校もしくは士官、自衛隊では幹部と呼ばれる階級だ。厳密には曹長と少尉の間に准尉という階級があるが、これは兵長以上に稀な存在である。

一般にどこの国でも、将校となるには士官学校を出る必要があるが、並行して、大学生などは短期の訓練で将校になれる制度が、やはり多くの国で採用されている。

と言うのは、少尉・中尉といった若い将校は、突撃の先頭に立たねばならないため、死傷する確率も高く、戦争が激化し長期化すると、士官学校の卒業生だけでは必要な人数を賄えなくなるからである。たとえば第一次世界大戦の西部戦線では、英軍将校の平均寿命(着任から戦死まで)は三週間、とまで言われていた。

そうなった原因のひとつは、旧日本軍と同様、機関銃の威力を軽視して、騎兵と歩兵による抜刀・銃剣突撃こそが「決戦手段」だと信じられていたからであるが、いずれにせよこの結果、高等教育を受けた青年が多数失われ、その後の英国に人材面で深刻な影響をもたらしたと言われている。

▲写真 1907年(明治40年)当時、市ヶ谷台の陸軍士官学校本部と正門 出典:国立国会図書館

もうひとつ、軍隊は階級社会だと述べたが、別の一面もある。

「星の数よりメッコ(飯)の数」

という価値観だ。偉くなる(階級が上がる)につれて、階級章の星の数が増えるわけだが、それよりも軍隊の飯を長年食ってきた、古参兵の方が大きな顔をしている、といった意味合いの表現で、実際多くの国の軍隊で、軍歴10年を超す軍曹・曹長クラスが、新米少尉の教育係のような役割を担っていると聞く。

ただ、メッコの数が増えれば階級も上がるのかと言うと、これはまた別問題で、国によっても、また戦時と平時とで状況はかなり異なるが、旧日本軍の場合は「学歴社会」の色合いが強く、陸軍士官学校の席次(成績順位)がそのまま出世の度合いに反映される、とまで言われていた。対照的に、英国統治時代のインド軍では、一兵卒から叩き上げたような将校が大勢いて、サンドハースト(英国王立陸軍士官学校)に留学したようなエリートのことを、むしろ「サロン将校」などと呼んで見下す傾向まであったとされている。

ところで、読者は不思議に思われないだろうか。

戦前の日本では、どのみち徴兵の義務があって、否応なく一度は軍隊に入らねばならないのに、どうしてわざわざ職業軍人になるような若者がいたのか、と。

これに関しても、まずは旧日本軍における「学歴社会」の問題から見てゆかねばならないが、戦前の陸軍士官学校・海軍兵学校は入学のハードルが高く、頭脳的にも肉体的にも優れた若者しか合格できないと考えられていた。

その分だけ、エリートとして遇され、具体的には在学中から給与が支払われ、衣食住はもちろん保障されていたし、卒業と同時に少尉任官されて部隊の指揮を任されたのである。

そうした次第なので、貧しい家庭の子が立身出世を願った場合も、軍の学校を出るのが早道と考える者が少なくなかった。

下士官兵にせよ、愛国的な動機で志願する者も当然いたが、衣食住が保証される軍隊には、就職先としての魅力があったことも、また事実であるし、戦争映画や歴史小説にも、しばしばそうした描写が見受けられる。

たとえば、1936(昭和11)年に起きた陸軍部隊の反乱事件=226事件を描いた『動乱』(1980年)という映画。

反乱軍に加わることとなる将校を高倉健、その妻を吉永小百合が演じて、二人の初共演が話題となったが、青年将校たちの不穏な動きを察知して、自宅までマークしている憲兵を演じた米倉斉加年が、なかなか味のある芝居を見せてくれていた。特に、忙中閑ありで弁当を広げるシーンで、部下に、自分たちも貧しい農村の出だから、と語りかけ、

「軍隊に入る前は、こんなまっちろいおまんま(白いご飯)、食ったことなかった」

という台詞は印象深い。麦や雑穀の混じったご飯しか食べられなかったのだろう。

大恐慌下の昭和初期に、塗炭の苦しみにあえぐ庶民をないがしろにして、財閥を優遇するような政治に対する軍人たちの憤激に、ともすれば同情しそうになるが、憲兵という立場上それは許されない、というジレンマがよく表現されていた。

資料を冷静に読み込んだならば、226事件の底流にあるものとは陸軍内部の派閥抗争で、前述のようなキレイゴトで片付けられる話ではないのだが、と言って、青年将校たちに、当時の格差社会に対する怒りを「憂国の至情」に置き換えた思想など、本当はなかったのだと決めつけてしまっては、それも誤った歴史観になると思う。

これまた前シリーズでも触れたことだが、明治維新を経て近代国家として再出発した日本であったが、昭和になっても、まだまだ貧しかったのだ。司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも、日露戦争当時の日本兵は、軍隊に入って初めて靴を履いたというものが少なくなかったと記されている。このあたりの事情は、昭和になってもさほど大きく変わっていなかった。

こうした貧弱な国力は、実は兵士の戦闘スキルにまで反映されていた。

アジア太平洋戦争当時の日本陸軍において、軍用トラックの運転ができる者は、陸軍の第一線部隊ですら、全将兵の5%に満たなかったという。対する米軍はと言えば、17歳以上の兵士全員に運転免許を取らせる方針が徹底されて、イラストを多用した運転マニュアルまで配布されていた。

「世界で一番強い日本兵が、ぜいたくな生活に慣れ切った米兵に負けるはずがない

という幻想が、事実を持って打ち砕かれたことは、当然の成り行きであったと考えるほかはないだろう。

(続く。その1

トップ写真:旧日本軍兵士たち 出典:Photo by Hulton Archive/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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