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.社会  投稿日:2022/11/17

ピカソ 愛した女性の肖像画


本田路晴(フリーランス・ジャーナリスト)

【まとめ】

・東京・上野の国立西洋美術館で展覧会「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が122日まで開催中。

・「常に女性を愛し愛される」ピカソの愛人のひとり、ドラ・マールの日本初公開の肖像画が注目である。

・ドラは、ピカソの代表作「ゲルニカ」の制作を支えた女性として知られている。

 

パブロ・ピカソといえば、共和国軍とフランコ将軍を中心とした反乱軍の戦いであるスペイン内戦を描いた「ゲルニカ」があまりに有名だ。1937年4月26日、フランコの要請を受けたナチス・ドイツの空軍が、スペイン北部のバスク地方にある小都市ゲルニカに史上初の無差別爆撃を行なった。これに激怒したピカソは同年、パリで開かれた万国博覧会・スペイン館を飾る絵画の主題にこの爆撃を選ぶ。絵画はヒトラーと手を組み共和制を崩壊しようとするフランコに対する抗議として捉えられ、ピカソは芸術面のみでなく社会的賞賛も浴びる。私が中学の美術史の授業で学んだピカソ像も「ファシズムと戦った偉大な画家」、偉人としての姿だった。

しかし、ピカソは常に女性を愛し愛される人だった。よく知られているだけで、フェルナンド・オリヴィエ、エヴァ・グエル、オルガ・コクロヴェア、マリー=テレーズ・ヴァルテル、ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、そして、晩年のピカソを支えたジャクリーヌ・ロックなど様々な妻たちと愛人たちがいた。

注目を集めるゲルニカの制作を支えた愛人の肖像画

 東京・上野の国立西洋美術館でベルリン国立ベルクグリューン美術館が所属するピカソの作品(うち35点は日本初公開)が紹介される展覧会「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開かれ、ピカソの代表作「ゲルニカ」の制作を支えた愛人、ドラ・マールの肖像画が注目を集める。

 1936年に描かれた「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」と1939年製作の「黄色のセーター」だ。

 ドラ・マールは1936年から1943年までピカソの愛人だった。ただ、姿、容姿の良いだけの女性ではなく、彼女自身、写真家であり画家であり、シュルレアリスムの写真家として知られていた。芸術や人生に対しても臆することなく、堂々と対等に会話できるところにピカソは強く引かれる。

 ピカソはゲルニカで起きた無差別爆撃の惨状を知ると、それに抗議する作品をパリで開かれる万国博覧会のスペイン館に出品することを決意するが、最終的に縦3・49メートル、横7・77メートルとなる作品を描く場所がピカソにはなかった。

生前のピカソと親交のあった美術評論家の瀬木慎一氏の『ピカソ』(集英社新書)によると、ドラはピカソのために、パリ、セーヌ河左岸にある芝居の稽古場を、親しかった所有者の了承を得て確保する。ピカソは1937年5月頃から6月にかけて早速に製作を始めるが、ドラは製作していく過程を何段階かに分けて撮影し記録に残した。

 ゲルニカの製作の最中に愛人同士が掴み合い

写真)パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

出典)Photo by Carlos Alvarez/Getty Im

ピカソの代表作「ゲルニカ」の製作を陰で支えた女性として位置づけられるべきドラ・マールだが、ピカソの常軌を逸した女性関係のせいでその間、修羅場にも直面する。

1937年5月から6月ごろ、ドラが確保した稽古場でピカソが「ゲルニカ」を描いている最中に、もう一人の愛人でマヤという娘まで設けたマリー=テレーズが現れる。ドラも当然、そこにいた。

 マリー=テレーズが怒って「私にはこの人の子どもがあります。(中略)あなたはすぐに出ていってください」と言うと、ドラは「私も同じようにここにいるだけの理由があります。私にはこの人の子供はいないけれど、それがどうだって言うのです」と言い返す。

 並の神経の男なら、うろたえる場面だがピカソは違った。マリー=テレーズにどちらかを選ぶように迫られると、ピカソは二人で「徹底的に喧嘩すべきだ」と突き放す。二人の女性は掴み合いの喧嘩を始めるが、これをピカソは後に「これが自分の最高の思い出の一つだ」と語っているのだから規格外の男だ。

 そのドラも1943年5月に、ピカソがフランソワーズ・ジローという新しい女性と出会ったことを契機にやがて別れることになる。

 一際目を引くドラ・マールの肖像画

 1936年に描かれた「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」は黒のコーディネートでまとめたドラと緑色のマネキュアが印象的だ。ドラはその日の気分によってマネキュアの色を変えたという。

 ピカソはこの絵をドラに贈った。1943年に二人の関係が終わってからも、ドラはこの絵を大切に保管し続け、リビングルームの暖炉の上に飾っていたという。

今回日本で初公開される1939年製作の「黄色のセーター」は活動拠点としていたパリではなく、疎開先のフランス南西部のロワイヤンで描かれた。肘掛け椅子に堂々と座るドラをモデルとする女性はまるで玉座につく女王だ。ただ、この絵はマリー・テレーズの面影も重ねているという説もあるから複雑だ。

この絵はユダヤ系フランス人の画商のポール・ローザンベールが一旦は購入するが、第二次大戦中はフランスを占領していたナチス・ドイツに没収される。詳細は明らかにされていないが奇跡的にドイツに運び出される前に持ち出され、後にベルリン国立ベルクグリューン美術館のコレクションの一つに加わった。ナチスがピカソの一連の作品を「退廃芸術」と見なし、ドイツ本国への持ち込みを禁止したから難を逃れたという説もある。

ピカソはこの2作品だけでなく、数々のドラの肖像画を残している。ゲルニカ製作と同じ、1937年に描かれた「泣く女」(英ロンドン、テート・モダン所蔵)も有名だ。この絵も、「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」同様に、ドラの死後に自宅から見つかった。

ピカソの91年の生涯でドラは1936年から1943年までの第二次世界大戦を挟む、ほんの限られた期間の愛人だった。ただ、他の愛人たちのようにピカソとの思い出を回顧録にして出版するようなこともせず、1997年7月16日にパリでひっそりと90年の長い生涯を終えた。ピカソから贈られた作品に囲まれながらの人生の終焉だったという。

ドラの肖像画を含む、ピカソの初期の「青の時代」から晩年までの作品の数々を紹介する「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」は東京・上野の国立西洋美術館で来年1月22日まで開催される。

写真)パブロ・ピカソ「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」

出典)Photo by Antoine GYORI/Sygma via Getty Images

 

 

 

 




この記事を書いた人
本田路晴フリーランス・ジャーナリスト

読売新聞に16年在籍、特派員として1997年8月から2002年7月までカンボジア・プノンペンとインドネシア・ジャカルタに5年ほど駐在。


その後もラオス、シンガポール、ベトナムで暮らす。東南アジア滞在歴は足掛け10年。2022年9月より沖縄平和協力センターの上席研究員。

本田路晴

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