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.社会  投稿日:2023/1/30

神も仏も酒が好き(上)酒にまつわるエトセトラ その5


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・日本の酒の起源は稲作の伝播と同時くらいで3世紀にはすでに飲酒が生活の一部になっていた。

・酒は神事と不可分であり、単に「飲み物」とは考えられていなかった

・仏教世界において、日本ほど飲酒におおらかな国は珍しい。

 

天照大神の弟である須佐之男命(スサノオノミコト)は、乱暴狼藉のかどで高天原(たかまがはら。日本神話における天界)から追放され、地上に降り立った。

出雲国=現在の島根県を歩いていると、美しい娘を間にはさんで老夫婦が泣いている。

わけを尋ねると、年に一度、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という、頭が八つで尾が八本の怪物が現れて娘を一人ずつ食べてしまった。今年も間もなくやってくる、と言う。

須佐之男命は、その娘との結婚を条件に、怪物退治を引き受け、八つの瓶に酒を満たして出現を待つ。この計略が図に当たり、怪物が酔って寝込んだところを襲撃。首をはねた。

『古事記』に登場する有名な話だが、小学生の時に初めて聞かされた時は、

(神様って、意外と汚い手を使うんだな)

などと国家神道の関係者が聞いたら激怒しそうな感想を抱いたものだが、そんな話はさておき、実はこれ、日本における酒造りの最古の記録なのである。なんでも「八回絞った強い酒」が用意されたとか。

今回は日本人と酒との関わりということで、主に日本酒について語らせていただくが、言うまでもなく、その主原料は米である。

もっとも最近は、酒そのものは太古の狩猟・採集社会にも存在した、と考える人も多い。

前にも少し触れたことだが、稲作が伝来する以前の縄文時代の遺跡から、化石化した果実や、中国で酒の醸造に用いられていた容器と同じような形状の土器が見つかっているので、縄文人も酒を嗜んでいたのではないか、と推察されるわけだが、今のところ「状況証拠」以上のものは得られていない。

話を進める前に、言葉の定義をはっきりさせておかないといけないが、まず日本酒とはなにか。

そもそも論から述べると、わが国で酒の製造販売を管轄しているのは国税庁で、酒の定義は酒税法に明記されている。法的には、我々が一般に日本酒と呼んでいる物は「清酒」で、概略紹介すると「米、米麹、水を原材料として発酵させ、濾した物」だと定められており、特に国産米を原料とした場合のみ「日本酒」と表示することが認められる。ただしアルコール度数の規制もあって、22度を超える物は「リキュール」に分類される。

とは言え本稿では、日本で醸造された酒という意味で「日本酒」と呼び、税法上の定義には囚われないことを、あらかじめお断りしておく。清酒については、後であらためて触れる。

いずれにしても、日本において酒と言えば米が主原料であることは事実で、その起源は稲作の伝播と同時くらいであったろうと考えられている。

ただ、文字が日本にもたらされたのは稲作の伝播に遅れること数世紀となるし、近年では考古学の発展とともに、過去の定説が次々と覆されているので、今のところは不明な点が多い。将来は、稲のDNAなどが詳しく調べられ、色々なことが分かるようになりそうだが。

話を戻して、古代日本に関する文献としては、もっとも有名であろう『魏志倭人伝』にも、

「倭人は酒を好み、客を酒でもてなすことを特に好む」

などとあるので、3世紀(同書の刊行は西暦280年頃とされる)の日本列島では、すでに飲酒が生活の一部になっていたことがうかがえる。

 やがて日本列島にも国家と呼ぶべき物が形成され、律令制の時代を迎えるが、その律令において、酒の醸造や節会(季節ごとの節句に宮中で開かれる宴会のこと。〈せちえ〉と読む)の手配をつかさどる役所が設けられ、造酒司と呼ばれた。

読み方は「みきのつかさ」「さけのつかさ」のどちらでもよいらしいが、正式には前者であったと考えられる。

と言うのは、古代、酒は神々に捧げるもので、加熱した米をよく噛み、唾液によって発酵させていたが、その役目は巫女が担っていたことが資料で分かるからだ。今でも儀式で振る舞われる酒を「御神酒(おみき)」と呼ぶのも同じ語源であるし、もともと造酒司が設置されたのは、天皇家に酒を供給するためであった。

すると、庶民は酒を飲めなかったのだろうか、との疑問を抱く読者もおられようが、その答えはイエスでもありノーでもある。

飛鳥時代や奈良時代には、幾度となく農民に対して禁酒令が出されていたが、五穀豊穣を祈る祭礼など例外は認められていた。酒は神事と不可分であり、単に「飲み物」とは考えられていなかったのだ。

一方で、米麹を用いる醸造法は奈良時代に中国から伝わっていたが、逆に言えば、それ以外の醸造法や、木の実や果実を使う酒造りに関しては、とりたてて規制もなかった。

さらに言えば、ビールが好まれた西アジアや南ヨーロッパと違い、日本列島は湿潤な風土で、生水は危険だという認識もなかったから、禁酒令に背いてでも、という人が少数派にとどまっていたとしても不思議はない。

ただ、その後の平安時代に入ると、律令制のタガが緩んだ結果、造酒司が蓄積したノウハウや、職人の「頭脳流出」が相次ぎ、神社や仏教寺院が独自の酒造りに乗り出す例が増え始めた。高野山で造られる酒は特に評判がよかったとされるが、と言うことは、この頃すでに酒を消費財と見なす傾向がみられたのだろう。

鎌倉時代に入ると、今風にいえば「民間の醸造所」がいくつも出現し、本格的に酒が消費されるようになった。鎌倉体制下の守護大名や御家人は、領地で醸造される酒に税を課していたので、飲酒を悪徳と見なす考え方も、すっかり鳴りを潜めたようだ。

その後、鎌倉幕府は滅亡して室町時代、さらには戦国時代が始まるが、この過程で、室町幕府の権威が衰えたため、近畿地方における酒税の徴収を比叡山延暦寺が代行していたという記録もある。

多くの仏教寺院に「葷酒山門に入るを許さず」という札が掲げられている(葷とはニラやニンニクなど、香りのきついもの。性欲を増進させるからであるとされる)のだが、仏教世界においては、日本ほど飲酒におおらかな国は珍しい。京都の祇園で、得意客の中に僧侶が占める割合が高いのは、知る人ぞ知る話だ。

いずれにしてもこの当時、酒といえば醪(もろみ)がそのまま残った「どぶろく」である。

酒造メーカーの資料などによれば、今では「どぶろく」と「濁り酒」は別物と定義されているようだが、その話はさておき、無色透明に近い「清酒」が登場するのは、もう少し時代が下ってからである。

次回、清酒の普及から「SAKEブーム」に至るまでの話をさせていただく。

(つづく。その1その2その3その4

トップ写真:日本酒のボトル 出典:Photo by Buddhika Weerasinghe/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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