今更ながら「新成人」へ 酒にまつわるエトセトラ 最終回
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・わが国も18歳から成人ということになった。相変わらず20歳の集いで、酔って騒ぐ若者がいる。
・酒は酔うために飲むより、楽しむために飲む方がずっとよい。
・くれぐれも、飲酒のための飲酒にだけは走らないでいただきたい。
昨年4月より改正民法が施行され、わが国も18歳から成人ということになった。
ただ、成人式は大半の市町村において「20歳の集い」と名前を変え、その名の通り前年に20歳の誕生日を迎えた人を対象に開催されている。
また、飲酒喫煙はこれまで通り20歳にならないと認められない。
このため、20歳の集いの会場周辺で、酔って騒ぐ馬鹿者、もとい、若者の姿が相変わらず報道されている。いや、馬鹿者と言われても仕方ないのではないか。
ある情報番組で、キャスターが、苦言を呈する文脈ではあったが、
「気持ちは分かるけど……」
と発言してヒンシュクを買ったりもした。このキャスターの言いたいことも分からないではないが、やはり大人であるならば、酔って暴れるというのは人として間違っているのだということを、きちんと発信するべきだったと思う。
本シリーズでは、飲酒の習慣は文明と不可分であったことを、ここまで様々な例を出して述べてきた。日本酒にせよワインやビールにせよ、おいしい酒が飲みたい、という動機でもって、すさまじいまでの情熱とエネルギーが注ぎ込まれてきたのだ。
ならばどうして、飲酒を悪徳と見なす人が昔から多かったのか、と疑問に思われる向きもあるかも知れない。この点もやはり、歴史を振り返りながら考えるのがよいだろう。
ローマ神話で酒の神と称されるバッカスは、同時に豊穣の神でもあった。これは、より古いギリシャ神話のディオニューソスのコピーだと考えられている。
豊穣を祈って、もしくは祈って酒を酌み交わすのは、神の意志に沿うことであり、酔って気持ちよくなるのは精霊からの恩恵だと考えられていたのである。
したがってまた、酩酊という現象も「精霊のいたずら」と考えられ、現在の感覚に照らしても、割合大目に見られていたフシがある。酔って醜態をさらした者が、しらふに戻ってから、
「俺が悪いんじゃない。酒が悪いんだ」と言い張るのは珍しいことではないが、古代ギリシャ時代にも(ギリシャ語でどう言うのかまでは分からないが笑)、そういう手合いはいたに違いない。
一方では、酩酊・泥酔を神の心に沿わないものと考える人たちも、古くからいた。
シリーズの最初の方で述べた通り、キリスト教が誕生した時代は、中東でワイン醸造が大いに広まっていった時代でもあるが、イエスと弟子達が皆、盛大に飲み食いをしつつ談論風発する様子を、ユダヤの聖職者たちは口を極めて罵ったとされている。
イエス自身、飲酒を罪悪視はしなかったが、酩酊は強く戒めていた。
イスラムが飲酒を認めないことは、今では世界中で知られているが、実はクアラーン(=コーラン)には、飲酒を禁ずるという記述はない。
伝承に依れば、預言者ムハンマドのところに弟子の一人が訪ねてきて、
「酒と博打についての神の考えをお聞かせ願いたい」
と頼んだ。この弟子としては、どちらも人間を不幸にするから、という理由で、禁止すべきだ、との答えを期待していたようだ。
結局、その場では明確な答えはなく、紆余曲折もあったのだが、最終的にイスラム法で酒を禁じることになったという経緯である。
唐王朝の最盛期(8世紀初頭)に活躍し、詩仙と称された李白も、酒にはだらしがなく、
「李白は酒飲みだが、酒飲みが皆、李白になれるわけではない」
という格言を生んだ。
わが国でも、江戸時代の狂歌師である蜀山人(=大田南畝)が、やはり大酒飲みでしくじりも多く、ある日とうとう、弟子たちの前で禁酒の誓いを立てさせられた。
その後、弟子の一人が忘れ物に気づいて師匠の家にとって返すと、もう酒を飲んでいる。どういうことですか、と詰め寄る弟子に、さすが狂歌師、
「わが禁酒 破れ衣と なりにけり さしてくだされ ついでくだされ」
と詠んだとか。
笑って済ませられるうちはよいのだが、被害者が出るような案件では、そうも行かない。
近年スーパーやコンビニで、酒の購入に年齢確認が必要になったのも、飲酒運転が厳罰化されたのも、酒がからんだ犯罪や悲惨な事故が後を絶たなかったからだ。
たしかに、酒席でのセクハラ・パワハラはじめ「酒の上でのこと」に対して、過去の日本は少々甘すぎたのではないか、と思う面が多々ある。厳罰化は遅きに失したくらいだ。
「酒は飲んでも飲まれるな」
とは、誰が最初に言い出したのか知らないが、考え方自体は古代ギリシャより連綿と伝わっているのである。
もうひとつ、人生の先輩として、ようやく酒を飲むことが認められた若い人たちに伝えたいのは、
「安酒を飲むな」
ということである。私はビールの代わりに発泡酒を飲むくらいなら、酒を飲まずに暮らした方がよい、と考えている。
この物価高騰のご時世に、とか、前回の話と矛盾していないか、などと言わないでいただきたい。
前回、バブルの頃の逸話として「ロマコンのピンドン割り」を例に挙げたが、実はあれこそ、日本のサラリーマンが酒の楽しみ方を知らない証拠だというのが私の真意である。
「安酒飲んで憂さ晴らし」
という飲み方しか知らなかった人たちが、突如として天井知らずの社用交際費(要するに会社のカネ)を使えるようになったものだから、こういうアホな飲み方を考えつく。繰り返し述べるが、こういう飲み方は、精魂込めてよい酒を造った人達に対する一種の暴力である。そして、本来の意味では豊かさと対極にある行為なのだ。
人間、水を飲まないと生きて行けないが、酒を断っても死ぬことはない。ならば、酔うために飲むより、楽しむために飲む方がずっとよいのではないか。
居酒屋に行ったと思って、スコッチバーでシングルモルトを1杯楽しんでみてはいかがか。大丈夫。これはいくらですか、と聞いても、失礼に当たらない。気の利いたバーマンなら、むしろ積極的に、予算と嗜好を尋ねてくれるし、実際問題として、それほど高くない。
以前そうしたバーで、カウンターに腰を下ろすなり、
「今日は5000円で3杯飲ませて。できれば島系で」
と言っている人がいて、やるなあ、と感心させられた。島系とは、スコットランド北西沖にあるアイラ島の蒸留所から出た酒、という意味だ。かなりスモーキーで、好き嫌いが分かれるところではあるけれども(私はもう少し穏やかなハイランド系が好きだ)、いかにもスコッチをよく知っている人だと脱帽した。同時にこうも思った。
この人はこういう粋な飲み方ができるようになるまでに、一体いくら使ったのだろうか、と。やはり、本物を知るには、ある程度の資本投下は必要なのである。
諸物価高騰の折、無茶なことを言うものではない……という批判に対しても、私のスタンスはほとんど変わらない。これまた実際問題として、缶ビール2本分の金額で発泡酒が3本帰るか買えないか、といった程度ではないか。ならば「ビールもどき」の味にわざわざ慣れる必要もあるまい。
くれぐれも、飲酒のための飲酒にだけは走らないでいただきたい。それはアルコール依存症という、れっきとした病気の初期症状なのだから。
(完 その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7)
トップ写真:イメージ 出典:Commercial Eye/GettyImages
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。