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.国際  投稿日:2025/1/23

知られざるフリーメイソン(中)   陰謀論とデマは双子の兄弟・その2


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・フリーメイソンは14世紀英国で誕生し、啓蒙思想や社会奉仕を理念に各国へ広がった。

・英国では名誉革命後に非政治的な社会奉仕に転じたが、フランスでは啓蒙思想がカトリックと対立し、フランス革命に関与した。

・啓蒙思想や秘密結社的要素から誤解が生まれたが、その歴史的背景によるものである。

 

 

 14世紀の英国ロンドンで、熟練した石工たちによって旗揚げされたフリーメイソンが、その後の大きな社会的変化(具体的には宗教改革や啓蒙思想の台頭)にともない、組織の名称と体裁だけは保ったまま、啓蒙思想の普及と社会奉仕の精神を掲げる集団へと換骨奪胎したところまで前回述べた。

 

 ロッジ(集会所)と呼ばれる活動拠点は世界各地にあるが、現存する世界最古のロッジはスコットランドのエジンバラのそれで、1959年にはすでに存在したそうだ。ちなみに関ヶ原の合戦は西暦1600年のことであるから、徳川幕府の開闢よりも古いことになる。

 

 つまりは英国が発祥の地だが、1639年に始まった清教徒戦争をきっかけに、フランスへと伝播したものであるらしい。

「らしい」というのは、明確な文献資料が存在しないからだが、一般に以下のような経緯であったと信じられている。

 

 清教徒革命とは、歴史の教科書などでは、イングランド国教会が成立した(1534年)後も、勢力を保っていたカトリックが当時の英国王室に接近して復権を試み、これとプロテスタントの一派である清教徒(ピューリタン)との対立から内戦が勃発した、というように語られることが多いが、実際問題としては、農村における貧富の差の拡大や、国家財政の悪化に伴う増税など、政治経済に対する不満が爆発し、引き起こされた内戦であるとの見方が、歴史学者の間で多数派を占めている。

 

 ともあれこの清教徒革命によって、時のイングランド王チャールズ1世は処刑され、長男チャールズ(1660年の王政復古により、チャールズ2世として即位)と、弟のジェーム(後に最後のカトリック信者の英国王となるジェームズ2世)の兄弟は、フランスへと亡命。

 その、ジェームズの側近の中にフリーメイソンのメンバーがいて、ともにフランスに渡って以降、当時は新奇な思想であった「友愛」の理念について勉強するサロンを立ち上げた。これが、かの地に組織が根付くきっかけとなったというわけだ。

 

 どこまで本当なのか「判然としない」部分はたしかにあるが、上記の伝承と矛盾する証拠がなにひとつないことも、また事実である。

 いずれにせよ、遅くとも1640年代初頭までには、フランスの地でフリーメイソンの組織作りが始まり、その後、組織の方向性が「アングロ系」と「大陸系」とに分かれて行くのである。

 

 もう少し具体的に述べると、英国においてはまず、前述の王政復古の後、1685年にジェームズ2世が英国王(イングランド、スコットランド、アイルランドの王を兼任)の座に就いたが、ここで再び、カトリックの信仰を持つ新国王と、議員の大半がプロテスタントであった議会との対立が表面化した。

 

 そして1988年、カトリック支配の覆滅を意図した議会側は、ジェームズ2世と血縁のあるオランダ総督ウィレム3世に出兵を要請し、無血クーデターを成功させる。

実際には死傷者も出たのだが、前述の清教徒革命との比較で言えば無血に等しい。英国人はこのことを誇りとして名誉革命と称するようになった。クーデターという表現を用いたが、これは、ジェームズ2世の側が当初、それまで存在しなかった常備軍を編成して、オランダ軍の上陸を阻止しようとしたのだが、なんとその常備軍が寝返ったことで、あっさり大勢が決したからである。ジェームズ2世は再びフランスへ亡命した。

 

 この時期、イングランドやスコットランドのフリーメイソン会員たちがなにをしていたのか、個別具体的なことまではよく分かっていないのだが、総体としてはカトリックの強権支配が覆され、信仰の自由が認められたことや、世に言う「権利の請願」によって王権が制限されたことは間違いなく歓迎した。その結果、国家権力への敵意は示されなくなり、もっぱら社会奉仕をとなえるようになる。

 

 これに対してヨーロッパ大陸諸国、わけでもカトリックの勢力が強いラテンの国々では、フリーメイソンは異端視されるようになった。

 たしかに彼らが傾倒した啓蒙思想は、煎じ詰めて言えば人間の理性に至上の価値を見出すものであるから、この世は神が作りたもうたと信じる人の目には、異端と映る。

 

 かくして1738年、時のローマ法王クレメンス12世によって、フリーメイソンは公式に排斥(信者の入会を禁止した)されることとなった。

 このクレメンス12世という人は、それまで危機的状況にあったバチカン(=法王庁)の財政を建て直し、今や観光名所であるトレビの泉を建設するなど、多大な功績があったが、フリーメイソンにとっては迷惑な存在だったわけだ。

 

 フリーメイソンの側では、前回も述べた通り、会員になるに際して、どの宗教を信奉しているかということは問わず、後にはイスラム文化圏にも浸透している。

 

 ともあれこれ以降、キリスト教文化圏におけるフリーメイソンの立場は微妙なものとなり、位の高いメンバーほどその事実を公言しないという傾向が生まれてきた。

 

 そして1789年、フランス革命が勃発する。

 この革命に際して、指導的な役割を果たした若きインテリの中に、フリーメイソンの会員が少なからず含まれていた。前述のアングロ系と異なり、大陸系=フランスはじめカトリック勢力圏の組織は政治的に非常にアクティブで、とりわけブルボン朝の強権支配に対しては、反感を隠そうともしなかったのである。

 

 そのようなフリーメイソンは、王侯貴族やカトリックの高位の聖職者から成るアンシャンレジーム(旧体制)にとって、革命勢力に他ならなかった。

 

革命派の「自由・平等・博愛」というスローガンはあまりにも有名だが、これもフリーメイソンの理念と二重写しであると受け取られたのも当然である。

 

こうした話にどんどん尾ひれがついていった結果、フリーメイソンについて、

「得体の知れない秘密結社」

「世界征服を目論んでいる」

 といった偏見が広まることになったのだろう。

 

 たしかに組織内の階級制度とか、部外者にはよく分からないことも多い。しかしそれは、彼らが自覚的に目指したのではなく、歴史のしがらみでそうなってきたのだということは、ここまで読まれた方には、すでにお分かりいただけたのではないだろうか。

 

 次回は、わが国をはじめキリスト教文化圏には属さない諸国における、フリーメイソンの立ち位置について見る。

写真)フリーメイソンの入会式(18世紀・フランス

出典)Fine Art Images / Heritage Images/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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