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スポーツ  投稿日:2025/6/2

歴史を変えたボスマン判決 欧州のサッカー市場を賑わす日本人 その2


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・ジャン・マルク・ボスマン選手は、サッカー市場の「保有権ビジネス」に一石を投じた。

・同氏とその弁護士が提起した訴訟における「ボスマン判決」は欧州サッカー界の制度に大きな変革をもたらした。

・「保有権ビジネス」から「移籍金ビジネス」に移行した移籍市場はマネーゲーム化していった。

 

1990年6月、ベルギーリーグ2部のRFCリエージュに所属していた、ジャン・マルク・ボスマンという選手のもとへ、フランス2部のUSLダンケルクから、移籍のオファーがあった。

この年、ボスマン選手がリエージュと結んでいた2年契約は6月をもって満了しており、同選手も移籍に問題はないと考えていたらしい。

ところが、当時ヨーロッパのサッカー界においては、所属する選手に対してクラブには「保有権」があり、たとえ契約満了後であっても、クラブ側が納得できる条件が整わない限り、自由な移籍は認められない、という規定があった。

納得できる条件とは、具体的には移籍金である。

今の日本の読者には、芸能人と事務所(=プロダクション)との関係に話を置き換えれば、分かりやすいだろうか。

芸能人と所属事務所との間で金銭トラブルが生じ、その結果、所属芸能人が退社、とりわけ同業他社に移籍したりすると、TVに出られないように圧力がかかる、という例のやつだ。

無名の(サッカー選手の場合は、ジュニアやユースといった下部組織で育成した)新人が売れっ子になるまでには、事務所(=クラブ)の側が相応のコストと労力を投じているわけだから、その分、稼がせてもらって当然、という論理なのだろう。

そう。当時ヨーロッパのサッカー界において移籍とは保有権を売却することに他ならず、こうした「保有権ビジネス」が、クラブの収入源として貴重なのであった。

結局ボスマン選手の場合、ダンケルク側が対価の支払いに応じなかった。これにより移籍の手続きができず、さらにはリエージュも彼を戦力外としたため、キャリアが宙に浮いてしまう格好となった。

そこで彼は、リエージュとベルギーのサッカー協会を相手取って、保有権の放棄を求める訴訟を起こし、同年11月に全面勝訴した。遺失利益すなわち本来ならば得られたはずの賃金の支払いと、移籍が認められたのである。

こうしてフランス3部のオランピーク・サン・ケティンに移籍したボスマン選手であったが、無所属の身となっていた時期、資格を得たばかりのジャン・ルイ・デユポンという若手弁護士と知り合い、相談に乗ってもらっていた。

このデユポン弁護士がボスマン選手に対して、

「そもそも保有権ビジネスは、EU圏内における労働者の移動の自由を保障したローマ条約に違反している」

という論法にて、場所を欧州法廷に移して再度の訴訟を起こすことを提案したのである。

かくして再度の訴訟が提起されたが、原告=ボスマン側が求めたのは、契約期間満了後の移籍の自由が保証されることであった。

ところが欧州法廷のある司法官(=判事)が、前述のようにEU域内での公正な競争と労働者の移動の自由が保証されていることに鑑み、各国のリーグが外国人枠を設定して国籍に制限を設ける、いわゆる外国人枠も撤廃すべき、という内容の報告書を公開したのである。

その判事の名はカール・オットー・リンツといい、彼の手になる「リンツ報告書」が、UEFA(欧州サッカー連盟)を震撼させたことは言うまでもない。

1995年月9日、UEFAは加盟49協会の会長全員の連盟で、公開書簡を発表。

「現行制度が違法だと判断されたならば、ヨーロッパのサッカー界は壊滅的打撃を受ける」

などと訴えた。

主張の骨子は、財政面で恵まれた一握りのビッグクラブが、対価を支払うことなく中小のクラブから選手を奪うことが可能となっては、サッカー人気そのものが低下しかねない、ということで、今考えれば、これはこれでまっとうな懸念であったと言える。

現実問題としてラ・リーガ(スペイン1部。リーガ・エスパニョーラとも)の場合、レアル・マドリードとFCバルセロナが戦力的に図抜けており、他のクラブには優勝の可能性がほとんどないということで、サッカー人気自体が低下した、と問題視されている。

これについて私は、レアル・マドリードの異名が「白い巨人」であることから、

「〈巨人〉ばかりがカネにものを言わせて選手をかき集めるようなことを続けては、ろくなことにならないだろう」

と開陳したことがある。ただ、公正を期すために、全ての国のリーグで同様の問題が見られるわけではないことを、ここで明記しておきたい。

話を戻して、訴訟を提起したボスマン選手とデユポン弁護士らに対しては、サッカー界から有形無形の圧力が加わったと聞く。

ボスマン選手の場合、前述のようにフランス3部のクラブに移籍したものの、半年ほどプレーしただけで、以降、どこのクラブも彼とは契約したがらなくなった。

彼は当時まだ28歳であったが、UEFAを敵に回すような訴訟を提起した張本人と契約したりすれば、地雷を踏むことになりかねない、と思われたのであろう。早い話が「干されて」しまったのである。

いずれにせよ、UEFA側の必死の抗弁も虚しく、1995年12月15日、欧州法廷はボスマン選手側の主張を全面的に認める判決を言い渡した。これが世に言う「ボスマン判決」である。

サッカーではぱっとしなかった(干されたと述べたが、そもそも2部リーグ止まりで代表歴もない)ボスマン選手だが、この判決に名を留めたことによって、20世紀ヨーロッパのサッカー界において、最も名を知られる一人となった。

この判決以降、ヨーロッパの各クラブは、有望な若手選手とは4年とか5年といった長期契約を望むようになった。

理由は簡単で、ボスマン判決によって違法とされたのは、契約満了以降もクラブ側が選手の保有権を主張して移籍金を得ることができるとの慣習で、逆に言えば、契約期間内に移籍のオファーがあれば、移籍金を得ても問題ないからである。

たとえば1998年のワールドカップ・フランス大会で、日本代表の中心選手として活躍した、当時21歳の中田英寿選手は、イタリアのペルージャに移籍したが、その際、ペルージャ側は4年契約を望んだ。これは、彼がセリエA(イタリア1部)で気を吐けば、高額の移籍金が期待できるからであろうと、当時から衆目が一致していた。

そして実際彼は、2年後の2000年にASローマへと移籍する。

とどのつまりは保有権ビジネスが移籍金ビジネスへと換骨奪胎し、なおかつ外国人枠が撤廃されたことによって、移籍市場のマネーゲーム化もはなはだしいものがあった。

次回は、そのようなヨーロッパのサッカー界で、日本人選手に対する評価がどのように変遷していったかを見る。

トップ写真:中田英寿 出典:Allsport UK /Allsport GettyImages




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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