欧州進出今昔物語(上)欧州のサッカー市場を賑わす日本人 その3

林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・日本人で初めてヨーロッパのクラブとプロ契約した最初の日本人プロサッカー選手は奥寺康彦氏。
・三浦知良選手はアジア人初のセリエAプレイヤー。
・中田英寿氏の成功で欧州クラブが日本人選手に注目。
日本初のプロ・サッカー選手と称されるのは、奥寺康彦氏である。最近は異論も聞かれるが、少なくとも、ヨーロッパのクラブとプロ契約した最初の日本人には違いない。1977年10月、西ドイツ(当時)のFCケルンに入団したが、それ以前の所属は古河電工。Jリーグの旗が揚がるのは1992年のことで、この当時は、実業団の日本リーグが最高峰だったのだ。当然ながら日本代表も実業団の選手ばかりであった。1977年の夏、その日本代表がドイツで強化合宿を行ったが、時の代表監督・二宮寛氏が、1.FCケルン(以下ケルン)のヘネス・バイスパイラー監督と交友があったことから、奥寺氏ら数名の選手が練習に参加したのだった。実はこれは、練習と称したテストであったと伝えられる。と言うのは、当時のケルンは、補強ポイントとしてスピードのある左ウィングを探しており、監督の眼鏡にかなったのが奥寺氏であった、というわけだ。オファーがあった旨を伝えられた際、奥寺氏はドイツ語ができないことへの不安などから一度は断ろうとしたが、古河電工の監督であった川淵三郎氏(当時。後にJリーグの初代チェアマン)らの後押しで、ケルン入団が実現した。結果的に彼を獲得したのは大正解で、ケルンはこの年(77~78年)ブンデスリーガで優勝。っさらにはドイツカップ優勝と、二冠を達成したのである。奥寺氏も、当初こそ言葉の問題など、チームメイトからの信頼をなかなか得られなかったが、やがて、フォワードからディフェンダーまでこなせる万能型の選手として重宝され、ファンからも、頭脳的なプレイヤーであるとして「東洋のコンピューター」と呼ばれるまでになった。
だが、これでただちにヨーロッパのサッカー界において日本人選手への注目度が高まったのかと言えば、それは違う。理由はふたつ。
前回、ボスマン判決についての記事を書かせていただいたが、当時のヨーロッパでは、外国籍の選手を入団させるについてのハードルが高く、ましてや、プロ・リーグさえない国の選手に魅力を感じる指導者など皆無に近かった。結局、奥寺氏に続いてヨーロッパのクラブへの移籍を果たすのは、1994年に当時のヴェルディ川崎から、イタリア・セリエAのジェノアFCに移籍した、三浦知良選手となる。アジア人選手として初めてのセリエAプレイヤーとなった。1967年2月生まれの三浦選手は、この原稿を書いている2025年5月末の時点で、57歳になるが未だ現役だ。静岡学園高校を中退して、単身ブラジルに渡った彼は、18歳でサントスFCとプロ契約し、Jリーグの旗揚げが現実味を帯びてきた1990年、帰国して読売クラブに入団する。その後Jリーグ、さらには日本代表で活躍した彼だが、早い時期からヨーロッパの大きなリーグへの挑戦を希望していた。しかしながら、当時Jリーグ、と言うより日本のスポーツ界に強い発言力を持っていた、読売新聞の渡邉恒雄会長はスター選手の移籍を認めたがらず、結局、1年間のレンタルという形で、ようやくイタリア行きが実現する。ところが開幕戦で相手選手と激突し、鼻骨を骨折するという不運に見舞われ、クラブ側や日本のファンたちが期待したほどの活躍を見せることはできなかった。
結局「セリエAで成功した最初のアジア人選手」の座は、1998年にペルージャへの移籍を果たした、中田英寿氏のものとなる。彼の移籍は、色々な意味で三浦知良選手とは対照的で、たとえば当時所属していたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)は、「気持ちよく送り出してくれた。平塚でプロになってよかった」(中田氏本人の弁)とのことであった。ペルージャの側も、前回お伝えした通り、彼の才能を見込んで4年契約を希望した。ビッグクラブからのオファーがあれば移籍金が取れることを期待したのだ。これまた期待以上に、中田選手が加入した効果は大きく、具体的には、NAKATAのネームが入ったユニフォームのレプリカなどグッズの売り上げが急増し、彼が出場した試合の映像は日本に高く売れ、もともと静かな学園都市だったペルージャに、日本人観光客が急に増えるという効果まで生んだのである。
中田氏のこの成功によって、ヨーロッパのクラブが日本人選手に注目し始めたことは事実だが、まだまだこの時期は、もっぱら「商業的成功」を期待されていたことも、また事実であったと言わざるを得ない。格好の例として、2002年のワールドカップ日韓大会で、日本に史上初めての勝ち点をもたらすゴールを決めた鈴木隆行氏(現在は指導者・解説者)が大会後、ベルギー1部リーグのヘンクに期限付き移籍したことが挙げられる。氏はこの以前にも、ブラジルのクラブに期限付きで移籍したことがあり、ワールドカップでの鈴木氏の活躍を見たベルギーのサッカー関係者が食指を動かしたとの説明は、かなりの程度まで信用できるのだが、本当のところは、日本企業がクラブのスポンサーになつことを期待しての「ヒモ付き」の移籍ではなかったかと、当時から盛んに言われていた。私自身、鈴木氏本人については、「〈銀狼〉と呼ばれる猛々しい外見とは裏腹に、謙虚な努力家だと誰もが認めている」と高く評価しつつ、それだけに、「このような移籍は、本人のためにも、日本サッカーの将来のためにもならないのではないか」と批判的に開陳した。実際問題として、ヘンクにおける鈴木氏は、フォワードのレギュラーの座を獲得できず、右サイドでの起用がもっぱらで、出場機会も少しずつ減って行き、無得点という結果に終わっている。これを、彼の実力不足であったと片付けてしまうことは、私はためらわれる。
サッカー選手も、ヨーロッパの1部リーグで活躍できるか否かというレベルになると、素質以上に、監督が追求する戦術にうまくフィットするか、チームメイトと呼吸が合うか、といった点が大事になってくるからである。
次回は、21世紀になってから、日本人選手に対する注目度が上昇を続けている理由について見る。
トップ写真:奥寺康彦氏 出典:Bongarts/ GettyImages
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
