イスラエル・イラン紛争は「宗教戦争」ではない(下)シオニズムとイスラエル その2

林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・イスラエル・イラン紛争を「宗教戦争」とする見方は誤りで、イスラム指導者はユダヤ教とシオニズムを明確に区別している。
・中世イベリア半島でイスラムはユダヤ教徒を寛容に扱い、学術分野での活躍を認めていた歴史的事実がある。
・現在の中東対立は宗教対立ではなく、19世紀後半に始まった政治運動シオニズムが根本的原因である。
今次のイスラエル・イラン紛争について、わが国のメディアやネットで広まっている、「長きにわたる宗教戦争」であるとする見方の、一体どこが誤りなのか。
まずは端的に述べると、イランやトルコ、それにアラブ諸国の政治指導者たちは、ユダヤ教とシオニズムをきちんと区別できている。もちろん聖職者も然り。
市井の人でも、イスラムの教義や歴史について多少なりとも勉強したならば、宗教としてのユダヤ教と、19世紀後半から始まった政治運動であるシオニズムを同列視するような愚は犯すまい。
たとえば中世のイベリア半島はイスラムの支配下にあった。
具体的には、711年にイスラム勢力(ウマイヤ朝)の軍団がジブラルタル海峡を越えて、イベリア半島に上陸。当時半島を支配していた西ゴート王国の軍団を壊滅させ、710年代末までには、キリスト教勢力を半島北部の山岳地帯(カンダブリア山脈とピレネー山脈)にまで追いやった。
しかしながら、その後の支配はいたって穏健なもので、キリスト教徒であれユダヤ教徒であれ、人頭税さえ納めれば信仰の自由は保障されていたのである。
そもそもイスラムの教えでは、同じ一神教を奉じる人々は「経典の民」として、その人権は守られるべきものであったし、人種差別も明確に否定している。
ただ、くだんの人頭税がどんどん高額になっていたこともあり、レコンキスタが次第に力を増していった。日本では「国土回復運動」と呼ばれたりもするが、本来の意味は「再征服」に過ぎない。諸説あるが、おおむね10世紀頃から本格化したと見る向きが多いようだ。
ここで少し話を戻すが、イスラムの支配下にあったイベリア半島では、ユダヤ教徒たちは商業の他、哲学、医学、天文学、建築学といった学術の分野で活躍した。
アンダルシア地方のコルドバで生まれたマイモニデス(1138~1204)という人物など、ユダヤ教の高位のラビにして、ルネッサンスの人文思想を先取りしたと称される哲学者・法学者であり、医学や天文学にまで通じていた。マイモニデスとはラテン語訛りで、アラビア語読みでは、モーシェ・ベン=マイモーンとなるが、中世の地中海世界にあって、
「その学識、並ぶ者なし」
と賞賛され、今もコルドバの旧市街には彼の銅像がある。
さらに言えばコルドバだけでなく、アルハンブラ宮殿で有名なグラナダなど、アンダルシア地方の各都市には、旧ユダヤ人街が残されていたり、シナゴーグ通りなどという住所があったりする。イスラム支配の時代には、シナゴーグ(ユダヤ教の寺院)を建てることさえ認められていたのだ。
しかし前述のように、キリスト教徒によるレコンキスタが本格化すると、ユダヤ教徒の運命は一変した。
イスラムがユダヤ教徒に対して、同じ一神教を奉ずる「啓典の民」として人権を認めていたことはすでに述べたが、キリスト教の新約聖書では、ユダヤ人がキリストを死に追いやった、と書かれているため、ユダヤ教徒は不倶戴天の敵とされたのである。
それでもレコンキスタの初期には、新たに生まれたキリスト教王国において、ユダヤ教徒はその語学力を見込まれ、イスラム勢力との交渉に役立てられた他、イスラム支配が続いた地域と同様、商人や学者として活躍する者もかなりいた。
ところが、11世紀に入って十字軍の活動が始まると、ピレネー以北のヨーロッパでは「聖地エリサレムに跋扈する異教徒」に対する敵愾心が、自国の領域に暮らすユダヤ教徒に対しても向けられるようになり、その思想がイベリア半島にも伝播してきたのである。
1492年1月、イスラム勢力の最後の拠点であったグラナダが陥落。レコンキスタは完遂され、イベリア半島はイザベル女王とフェルナンド王の共同統治(=世に言うカトリック両王)下に置かれる。
そして同年3月末、ユダヤ教徒追放令が公布された。
わが国では「ユダヤ人追放令」とされることも多いのだが、本稿では「ユダヤ教徒」で統一させていただいている。ユダヤ教とシオニズムの区別と同様に、ユダヤ人とユダヤ教徒も区別することが大事だと考えるからだが、この点については、項をあらためて論証する。
ともあれイベリア半島から追われたユダヤ教徒の行き先は、大きく分けて二つあった。
ひとつはイスラムのオスマン帝国で、こちらに逃れた人々はセファルディ(ヘヴライ語で〈スペイン人〉の意味)と呼ばれて、イスタンブールはじめオスマン支配下の中東各地に散っていった。
一方、異教徒への敵愾心が比較的希薄であった東欧に逃れた人たちは、アシュケナージと呼ばれた。こちらはヘブライ語でドイツ(人)の意味である。
つまり、15世紀以降、二種類のユダヤ教徒のコミュニティーが誕生し、歴史とともに細分化して、教義や言語といった文化的伝統も、それぞれ独自に伝承していったわけだ。
最後に、少し余談を。
イベリア半島における三つの宗教の力関係の推移を、ごく大雑把ながら復習してみたわけだが、その痕跡が現代スペイン語にも残されていると聞いたら、驚かれるであろうか。
たとえば、¡Ojalá!(どうか~でありますように)という言い回し。
¡Ojalá! apruebe!(どうか合格しますように)といった使い方をするのだが、なんとこれ、イスラムの決まり文句であるインシャ・アッラー(神のご加護を)が語源だという。
一方、judiadaという単語があって、こちらは字義通りには「ユダヤ的な」といったほどの意味だが、カトリックの祖スペインにあっては、長きにわたって「卑怯なやり方」というニュアンスでもって用いられてきた。もちろん今では、そのような言い回しが印刷されたり電波に乗ったりしたら、大変なことになりかねないが。
いずれにせよここまでのところで、イスラムはユダヤ教徒に対して寛大な歴史を持っており、両者が「2000年にわたる宗教的対立」の関係にあったなどというのは、無知にもほどがある、と言わなければならない。そもそも2000年前には、イスラムは未だ影も形もない(7世紀初頭にアランビア半島で興ったとされる)。
繰り返し述べるが、現在のイランや中東諸国とイスラエルとの対立関係は、宗教に起因するというよりも、シオニズムという政治運動が大きく関わっていると考えざるを得ない。
次回、シオニズムとはなにかについて見る。
(その1はこちらから)
トップ写真:アルハンブラ宮殿
出典:Photo by nevarpp/Getty Images
【取材協力】
若林啓史(わかばやし・ひろふみ)北九州市出身、東京大学法学部卒。京都大学博士。早稲田大学・亜細亜大学講師。1986年から2019年まで外務省勤務。英国、シリア、イラク、オマーン、ヨルダンの日本大使館で勤務。現在は大学で教鞭を執る傍ら、朝日カルチャーセンター新宿校で継続的に中東問題やイスラームに関する講座を受け持つ。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
