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.社会  投稿日:2014/8/17

[為末大]<努力と競技力の関係>健常者も勝てない「義足」で走るパラリンピック選手は不公平か?


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

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2011年、世界陸上に初めて両足義足のオスカー・ピストリウスが登場した。始めてのパラリンピアンの登場だと世間は概ね歓迎ムードだったと思う。それとは裏腹に、一人の選手のコメントがとても興味深い。

「あんなの不公平じゃないか」

彼に敗れて予選で敗退した選手の声だった。

義足は走る事に有利か不利か。その時はさほど有利ではないという判断をされた為、彼は出場できた。ところが最近、走り幅跳びで8m24cmを跳ぶパラリンピアンが出てきた。現在の日本人では誰も彼に勝つ事ができない。彼は1年ほどで80cmも記録を伸ばした。

助走スピードは跳躍距離と相関がかなりある。彼の100mは11秒台で、大体そのぐらいの助走スピードだと、健常者であれば7mいかないぐらいの距離しか跳べない。ところが彼はそれで8mを越える。義足がバネの役割を果たしていると考えられる。

オスカーが出場しようとした時、世間の彼を擁護する声の最も大きな理由は、「がんばってきたから」だった。障害者という大変な人生を頑張ってきたのだから出してあげた方がいい、という理由。オスカーはまだ勝てるレベルではなかった。けれど今回の幅跳び選手は、世界で勝ってしまうかもしれない。

がんばったから許可してあげる、という姿勢自体はアスリートを傷つける。アスリートは自分の力で勝利を手に入れたという栄光が欲しい。「かわいそうだから」、「せっかくがんばってきたんだから」、という理由は、勝利には本来なんら関係がない。

日本の精神的なバリアフリーを最も阻害しているのは、「かわいそう」という同情だと思う。差別は打破できる。でも、かわいそうという感情がある以上、いつまでたっても障害者への上から目線は無くならない。

 

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