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「丸井」創業経営に見る変化の重要性 「高岡発ニッポン再興」その17

出町譲(高岡市議会議員・作家)

 

 

【まとめ】

・丸井の創業一族の経営は時代に合わせてその手法を変え成功を収めてきた。

・丸井は、1931年創業以来、赤字はたったの2回という実績を持つ。

・変化が、創業者の「三越のようになりたい」という想いを叶え、丸井を業界ナンバーワンにした。

高岡市にも、2代目、3代目の企業が数多くあります。そんな企業経営者に参考にしてもらいたいのは、首都圏を中心に商業施設などを展開する丸井です。

丸井の創業者、青井忠治は小杉出身で明治37年生まれ。高岡工芸高校に通っていました。その歴史を紐解くと、創業一族の経営のあり方を考えさせてくれます。

1980年代後半、大学生の私にとって、丸井は眩しい存在でした。丸井はデザイナーズブランドの聖地だったからです。

若者たちはバーゲンシーズンになると、新宿にある「ヤング館」には開店前から行列しました。まさしく、バブルと丸井は歩調を合わせていたのです。

けん引したのは2代目社長の青井忠雄です。昭和47年に社長に就任、33年間率いてきました。業績も絶好調で、30期連続の増収増益を実現したのです。

私は2015年初頭に忠雄と何度も会いました。忠雄の父、青井忠治のノンフィクションノベルズ「景気を仕掛けた男『丸井』創業者・青井忠治」(幻冬舎)の取材のためです。印象深かったのはこんな言葉です。

「先代(忠治)のおかげで今の丸井があります。丸井は、私の時代、そして息子とどんどん変化しています」。

忠雄は当時、一線を退き、経営は息子の浩にゆだねていました。名誉会長という肩書はあったが、経営には一切関与していませんでした。

忠治、忠雄、浩。3代の社長は時代に合わせて経営手法を大きく変えています。それが功を奏して、今や業界では圧倒的な力を誇っています。

その原点、青井忠治は、どんな人物だったのか。高岡工芸高校を卒業後、上京。都内の月賦店で丁稚奉公しました。月賦店というのは、タンスや机など高額商品を月賦で販売する店のことです。当時は、粗悪品を高い金利で売りつけるのが月賦店というイメージがありました。

独立したのは、昭和6年です。

「品質の良いものを低い金利で」。忠治は当時としては斬新な経営方針を打ち上げました。そのやり方で、時代の風に乗ったのです。

戦後復興、さらには、高度成長にかけて、大衆消費社会が到来したのです。「家具や洋服をすぐに欲しい」。忠治は、そんな消費者の心をつかみました。売り上げは急ピッチで伸びたのです。

こうした中、忠治は、家族経営を貫きました。社員は子どもという考えです。高岡などから採用した若者を、自宅に住みこませたのです。時には長時間労働を強いることもありましたが、それも家族経営故です。

しかし、時代はそれを許しませんでした。戦後の労働運動が高まりを見せていたのです。「経営者は悪」という風潮もあり、丸井に労組もできました。

激怒したのは、忠治です。労組の解散を強く求め、労組に入った社員の解雇を通知するほどでした。冒頭にお伝えした、バブル期をけん引した青井忠雄は、昭和30年に丸井に入社しました。早稲田大学で、経営についても学んでおり、こうした忠治のやり方に批判的だった。労働組合法などを踏まえ、経営体質は古すぎると指摘したのです。

そして忠雄は、社長就任後は、若者層にターゲットを絞り、ファッションと言えば、丸井となったのです。

ところが、この忠雄の経営も時代についていなくなりました。

息子の浩が2005年に社長に就任した。その後、上場以来の初の赤字となり、経営危機に陥った。リーマンショックなども逆風になりました。破綻したり、買収されたりするリスクもあったといいます。モノが売れない、デフレ。厳しい経営環境になったのです。

ここで浩は経営を大きく転換しました。若者をターゲットにしていた手法を180度転換し、年齢、性別、身体的特徴などを問わないすべての人を対象にしたのです。

さらに、商品を仕入れて販売する百貨店方式と決別。出店者に場所を貸すショッピングセンターモデルに転換したのです。

今や業界ナンバーワンの強さとなっている。株式時価総額では、三越伊勢丹、Jフロントリテイリング、高島屋などをはるかに凌いでいます。

創業者の青井忠治は独立したころ「いつかは三越のような存在になりたい」と語っていましたが、3代目の孫、浩は三越を追い抜いたのです。

時代に合わせ経営手法を大きく変化させたのです。かのダーウィンも言っているように「変化するものこそが生き残る」。青井家3代は変化の重要性を教えてくれます。

写真:中野マルイ外観

中野マルイ