"Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]

鮎川義介物語⑤アメリカの技術で新しい自動車会社

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・昭和8年12月、帝国ホテルで新会社「自動車製造」創立記念パーティーに多くのアメリカ人・日本人が参加した。

・鮎川のスピーチに感銘を受けたアメリカ人技術者ウィリアム・ゴーハム、協力を決意。

・鮎川・ゴーハムの二人三脚によって、自動車業界への本格進出を果たす。

 

鮎川義介はいよいよ、自動車産業への本格進出を果たすことになりました。

典型的な初冬の気候です。冬場の太平洋側で空は晴れ渡り、北風が吹いていました。師走だけに、人通りが多かったのです。昭和8年12月26日。東京・日比谷の帝国ホテルの舞踏室は賑わっていました。新会社「自動車製造」の創立記念パーティーが開かれたのです。

参加していた日本人とアメリカ人。その会場で飛び交う言葉も英語と日本語です。戦争の足音が高まっていた当時としては、異様なシーンでした。鮎川はまず、英語でスピーチしました。

「わが社は鋳物では、日本一になりましたが、水道管の継手のような小さなものを作っていては、これ以上の会社の発展は見込めません。それに、日本が世界に伍していくためには、国産自動車を大量生産しなければならない。この会社がその拠点になります。」。

その言葉の節々には、日本とアメリカの架け橋になろうという意気込みにあふれていました。さらに言葉を続けました。

「資本を十分に投入し、適切な指導と訓練が行われれば、日本人が日本で自動車工業を築けるだろう。そのために、アメリカから専門家の皆様をお招きしました。私はアメリカの人や会社と密接に協調して、新事業を始めたい。いささか遠大な望みかもしれませんが、新会社を通じて太平洋の両岸に位置する日本とアメリカの国民の相互理解を促進したい」。

このスピーチの後、一人のアメリカ人が鮎川に近づきました。45歳のアメリカ人技術者、ウィリアム・ゴーハムです。

ゴーハムは大正7年、30歳の時に、妻と二人の子供と一緒に飛行機技師として来日。鮎川と親交を深め、価格の安い大衆車の開発に着手していました。趣味はエンジニアリングと言ってはばからない仕事一筋の男でした。キリスト教の熱心な信者であり、発明家でもあったのです。

「私は鮎川さんと一緒に働けるのが誇りです。これまでの努力がいよいよ実る時期になりました」。

「いや私こそ、ゴーハムさんに会わなかったら、自動車製造に踏み出していなかったでしょう。本当感謝しています。自動車製造の技術はアメリカに頼らなければなりません」。

ゴーハムは岸に対し、こう発言しました。

「私は、アメリカ方式をそのまま日本に導入して成功すると考えていましたが、実際はそうした方法ではなく、日本には日本の特徴があり、なかなか良い点も多い。日本の家内工業にも優れた特徴があることを忘れてはいけません。これらに順応していかねば、成功は望みえないのであります。私はアメリカ式の優れた点と日本式の良い点を組み合わせて、将来事業の成功に努力すべきものだと感じています」。

この日の創立パーティーには、ゴーハム以外の外国人も参加していました。彼らはゴーハムがGMやフォードから引き抜いた技術者たちです。

金属に圧力を加え、目的の形にする「鍛造」(たんぞう)技術の神様とも言われたジョージ・マザウェル。祖父の代からの鍛冶屋の名家で、のちにGMの副社長になる人物です。

さらに、GM出身で、プレス型設計のスペシャリストであるジョージ・マーシャル。上司に「マーシャルを手放すことはとてもつらい。しかし、彼自身のためには良いチャンスだ。もし彼が望むなら、帰るまでポストを開けておく」とまで言わせた技術者です。

鮎川は、このパーティーを開く直前、ゴーハムをアメリカに派遣し、自動車製造に必要な機械を調達するように指示をしました。

ゴーハムは、ミシガン州のフォード本社とGM本社を訪問し、工場を見学しました。また中古の機械類の大量購入にも成功したのです。

鮎川・ゴーハムの二人三脚がこの自動車会社の設立に結びついたのです。

(⑥につづく。

トップ写真:1930年頃、ミシガン州デトロイトフォード工場で組み立てラインにならぶ自動車(本文とは関係ありません)出典:Frederic Lewis / GettyImages