鮎川義介物語⑦陸軍はフォードなど外資締め出し狙う
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・自動車をめぐる行政は、商工省と陸軍の二頭体制だった。
・陸軍は外国企業を駆逐できなければ国防上重大な欠陥が生まれると考えた。
・このスタンスは、商工省と鮎川とは対極的だった。
前回は、昭和初期の段階では、フォードなどアメリカの自動車大手が進出したとお伝えしました。
それでは日本のメーカーは存在しなかったのでしょうか。そうではありません。トヨタや日産が台頭する前、自動車を製造する会社はありました。
三菱造船や三井物産、川崎重工なども自動車製造に関心を示し、試作車などをつくっていました。また、陸軍の補助で、東京瓦斯電気工業、石川島自動車製作所、ダット自動車製造の3社が軍用の自動車を製造してましたが、それもわずかな台数でした。
しかし、自由貿易をもとに、アメリカ車が日本市場を席巻していたのです。日本の多くの企業や国民の中でも、国産車よりは、安価に手に入るアメリカ車の方がいいという声が出ていました。
外資を導入して、いち早く日本で自動車産業を作るべき。そんな鮎川義介にとっての“同志”は商工省でした。岸信介が官僚として、鮎川を応援していました。
自動車をめぐる行政は2頭体制でした。1つは商工省。こちらは、当時の商工大臣、町田忠治は自由貿易論者でした。アメリカ資本との提携に積極的だったのです。一方の陸軍は提携には否定的でした。
陸軍は昭和9年6月23日付で、巨大企業フォードに対する「挑戦状」をたたきつけました。新たに大規模な国産自動車会社を創設し、大量生産を行うことをうたったのです。さらには、自動車生産を許可制とし、国産自動車を保護するという内容でした。日本市場を席捲しているフォードなどを締め出すことを狙った措置でした。
こうした陸軍の案を執筆した陸軍省動員課の伊藤久雄少佐はこんな分析をしていました。
「戦争を始めても、日本の自動車製造能力は当初の1年ほどしか作れない。自動車を自給自足するためには、早急に大量生産の設備が必要だ。さらに、自動車は将来、飛行機に転用することも可能だ。自動車は総合産業であり、それが発展すれば、ほかの産業の発展にも寄与するはずだ。さらに、日本では自動車の台数12万台を超えているが、将来ますます増加するだろう。しかし、このうち9割以上で外国車が占めており、貿易赤字の原因になっている。アメリカの自動車会社は、日本だけでなく、アジアにおいても市場を独占しようとしている。こうした状況下では、国産自動車を確立し、外国企業を駆逐できなければ、日本の産業上、さらには国防上、重大な欠陥が生まれるだろう」。
陸軍が国産車の製造を決断した背景には何があるのか。私は調べました。「熱河作戦」が影響していることが分かりました。旧満州を制圧した関東軍は昭和7年3月に満州国建国を宣言しましたが、翌8年2月には、熱河省にも侵攻しています。
関東軍はこれまで旧満州を制圧する際には、鉄道網を活用していたのですが、熱河省では、鉄道はほとんど敷設されていません。そこで、使ったのは、戦車と自動車です。抗日を叫ぶ張学良の正規軍らを相手にした戦いです。4日間で400キロも走破した。わずか3カ月でスピード制圧できたのも、日本軍の兵站輸送に機動力があったためだ。
NHKのドキュメント昭和史(P42)は、
「当時、関東軍には野戦自動車隊三個中隊があった。『ちよだ』『スミダ』といった、陸軍の指導のもとに製造された軍用保護自動車が、その主力であった。しかし、熱河作戦を遂行するには車両の台数が足りず、大幅な増強が必要であった。そこで新たに四個中隊を加え、さらに戦線の拡大にともない、ついには十三個中隊という自動車隊ができあがったのである。
もちろん、これだけの規模の自動車部隊を編成するには、国産の軍用自動車だけではとうてい足りない。そこで、民間からの徴用がはかられた。『自動車第一連隊史』によれば、例えば第四中隊はシボレー、第六中隊はフォードで編成されたといわれる。そしてこのシボレーやフォードのトラックが、目をみはる活躍をみせたのである」。
アメリカ車は、国産車との性能の違いが浮き彫りになったです。陸軍はこうしたことを踏まえ、外資に依存するリスクを認識したのです。
このスタンスは、商工省と鮎川とは対極的でした。
トップ写真:満州国の様子、1937年ごろ 出典:Hulton Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。