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「高岡発ニッポン再興」その132 東日本大震災きっかけに学ぶリーダー像

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・危機の時代、頼れるリーダーは「メザシの土光さん」こと土光敏夫。

・戦後復興に全力を尽くし、晩年は財政再建に辣腕をふるった。

・亡くなった今でも、「土光イズム」は危機の時代で生きている。

 能登半島地震に直面しながら、私は13年前を思い起こしています。あの時の思いこそが、政治家になった出発点です。2011年3月11日、東日本大震災が起きました。そして原発事故。震災前から忍び寄る財政赤字や少子高齢化。未曾有の危機の時代、ここからどのように復興するのか。ジャーナリスト、いや一職業人として、それが最大のテーマになりました。

 当時私はテレビ朝日「報道ステーション」の番組の責任者。現場に行きたいという思いはありましたが、陣頭指揮を執る立場です。東京から離れることができません。現場にいる部下の記者やディレクターからの報告を受けながら、日本の危機を実感していました。危機の時代のリーダー像を探していたのです。

当時は民主党政権。2009年夏の総選挙で圧勝し、政権を獲得しましたが、その熱気はすっかり冷めていました。予算を見れば、財源もないまま大盤振舞でした。さらに震災後も復興、復旧そっちのけで、政争を続ける永田町の面々。私は嫌気をさしていました。

 震災以降、週末も、遊びに行ったり、気分転換する気になれず、ただひたすら復興に役立つことをしたいと思いました。危機の時代に頼れるリーダーは誰か。その結果、たどり着いたのが、「メザシの土光さん」、つまり土光敏夫です。

 土光は石川島播磨、東芝の社長、会長を歴任。その後は経団連会長、第二臨調会長として活躍しました。つまり、戦後復興に全力を尽くし、高度経済成長を駆け抜け、晩年は命がけで日本の財政再建に辣腕をふるったのです。

私は週末を利用して、ひたすら土光に関する取材や資料集めを行いました。没頭すればするほど、土光というリーダーを現在の社会に伝えたくなりました。1990年に記者になった私は、土光を直接取材した経験はありません。「メザシの土光さん」と言う言葉ぐらいしか知らなかった。

 だからこそ、改めて検証すると、土光の言葉や生き方が新鮮に映りました。危機の時代だからこそ大きな目標を設定して突き進む土光のような指導力が重要だと思いました。

土光の人生を振り返ると、リーダーとは何か。大事なポイントが浮かび上がりました。まずは現場主義です。

土光はエンジニア上がりで徹底した「現場主義者」でした。東芝や石川島播磨の社長の際も、すべての工場を視察。現場の労働者と触れあいました。さらに、工場内で機械の音を聞いただけで、その故障が分かったのです。販売店などもきめ細かく回り、時には社長自身でセールスマンのように歩きました。

仕事の最前線の現場主義に徹するからこそ、社員の心をつかんだのです。しかも、出張は本社の仕事の合間を縫って行われており、ほとんどは夜行で出かけ、夜行で帰るというハードスケジュールです。社長時代もバス、電車で通勤していました。

東日本大震災が起きたのは、土光敏夫が死去してから、23年後です。しかし、驚くべきことに、土光イズムはまだ生きていたのです。

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