坪井安奈(タレント・編集者・プロモーター)
「坪井安奈のあんなセカイこんなセカイ」
【まとめ】
・日本人は「正しい英語」を意識しすぎ。
・「シングリッシュ」は伝えたい内容が瞬時に伝わり合理的。
・言葉は生き物。時代の変化に取り残されるな。
【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=41369でお読み下さい。】
日本人は、英語を話すのが本当に苦手だ。
私は現在シンガポールに住んでいるが、悲しいかな、諸外国の人と比べて圧倒的に日本人は英語を使うことに躊躇している場面が多く見られる。その原因の1つとして、日本人は「正しい英語」というのを意識しすぎているように思う。
「発音が間違っているかもしれない」
「この場合は現在完了を使うんだっけ?」
「あ、ここは複数形だからsをつけなきゃ」
おそらく、いろいろなことが頭をよぎって、言葉が出てこないのだろう。だが、正直そんなことはどうでもいい。もちろん、状況によっては文法的な正しさが必要とされることもある。しかし、たとえビジネスの場であっても、大事なのは、形ではなく中身だ。
今すぐ恥を捨て、筆談・ジェスチャー・画像検索・グーグル翻訳、思いつく限りのあらゆる手段を使い、まずは自分の思いを相手に伝えてみたらいいのに…と思う。と、強気に出てみたが、今書いたことはすべて過去の私自身への言葉だ。
私も、かつては文法をとても意識して英語を話していた。4歳から英語を習い、ニューヨークに住んだこともあって根っからのアメリカ英語で育ち、学校や塾でも力を入れて勉強してきたため、文法のみならず、発音・アクセントにまでもうるさい方だった。
ところが、あれだけ習ってきた文法だが、大人になっていざ海外に出てみると、かなり多くの人が間違って使っているのが現状だった。それも、なんの恥じらいもなく自信満々に話しているのだ。
そんな場面を何度も経験し、文法なんて、人生の多くの場面においてはあってないようなものだと痛感させられた。これほどにも文法を意識しすぎてしまうのは、きっと英語が能動的に習得した「外国語」だからだろう。
そこで、一度、自国の「日本語」に立ち返って考えてみよう。たとえば、「ら抜き言葉」と言われる、「食べれる」「来れる」「見れる」。本来は否定に使われるはずの、「“全然”、大丈夫」。かつては若者ことばと揶揄された、「ヤバい」「まじ」「超」。これらは、今や、幅広い世代で日常的に使われている日本語だ。
「美しい日本語」というのは確かに存在するとは思うものの、日本人の我々でさえ、「本当に正しい日本語」という解釈は曖昧になりつつある。そんな時代に、どうして英語の文法だけ、それほどにまで意識する必要があるだろうか?
英語にだって、きっと時代の流れや時の変化が反映されているはず。そう思っていた時に、私は「シングリッシュ」という言語に出会った。
■ へんてこ英語「シングリッシュ」の合理性に脱帽
さて、ようやく本題の「シングリッシュ」の話に移ろう。私が今住んでいるシンガポールは、アジアの先進国としても注目をされている国だが、この国では「正しい英語」なんて概念は存在しないように見える。それどころか、人工的な言語「シングリッシュ」(=シンガポールのイングリッシュ)という言葉が生まれているのだ。
まずは1つ、シングリッシュの例を挙げよう。
店で洋服を試着したい時に、Can I try this on?と店員に聞いたとする。試着をさせてもらえる場合、文法的に正しい回答は以下になる。
Can I try this on?
→Yes, you can.
または、少しアレンジしたとしても、
→Of course.
→Sure.
→Why not?
この辺りまでだろう。
しかし、シンガポールでは想像を超えた回答が返ってくる。
どのような回答かというと…
Can I try this on?
→Can.
もしくは、
→Can, can.
こんな返答は、今までの英語教育の中では聞いたことがない。
もう1つ、例を挙げよう。
タクシーの運転手に“Do you need a receipt?”と、レシートが必要か聞かれたとする。必要ない時、文法的に正しい回答は以下になる。
Do you need a receipt?
→No, I don’t.
または、簡単に
→No, thank you.
というのが一般的だろう。
しかし、シングリッシュでは、全く違う表現が使われる。
Do you need a receipt?
→No need.
もしくは、
→No need, no need.
初めてこれらを聞いた時には思わず笑いそうになったが、両者の回答には共通して言えることがある。それは、文法は無視しているものの、一瞬で意味を理解できるということだ。必要な単語のみで構成されており、「できる」「必要ない」という伝えたい内容が、個々の英語能力に依存することなく瞬時に明確に伝わる。ある意味、とても合理的なのだ。
シンガポールは多種多様な人間が集まった国で、公用語は英語・マレー語・中国語・タミル語の4つある。そんななかで、効率的なコミュニケーション手段の1つとして新たな言語が生まれるというのは必然なことなのかもしれない。
さすが、多民族国家。さすが、計画経済の代表国。シングリッシュこそ、世界で通じ得る究極の「人工英語」になり得るかもしれない。いや、それは言いすぎか。とにかく、何が言いたいかというと、結局はコミュニケーションにおいては、伝わることが一番だということだ。
■ 言葉は生き物。時代の変化に取り残されるな。
▲写真 イメージ 出典:Pixhere
シングリッシュのことを、「あれは英語ではない」とバカにする人も一部いる。しかし、私の感覚では、今回紹介したCanやNo needは日本語の「ヤバい」「まじ」などと同レベルの頻度で日常的に使われている。
実際に自分が使うかどうかは別としても、新しい言葉の意味を理解し、それを使う人を受け入れていかないとコミュニケーションはいずれ成り立たなくなるだろう。
かつて、平安時代初期までは、「新しい」は「あらたしい」と読むのが正しかったという話がある。それが、今は「あたらしい」の読み方が当たり前に辞書に掲載されている。そう、言語の変化・進化は、何も最近に限った話ではないのだ。
■ 言語は、生き物だ。
日々生まれる新語や若者ことばを安易に否定することは、時代の流れに抗う残念な行動と言える。今、バカにしている言葉が、未来で正しい言語として使われる可能性は十分にあるのだから。
と言いつつ、私も「まじ卍」(まじまんじ)などの若者ことばは、未だに使えずにいるのだが…。
トップ画像:イメージ 出典 photo AC