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「別府のマネするな」由布院の改革者

出町譲(経済ジャーナリスト・作家、テレビ朝日報道局勤務)

「出町譲の現場発!ニッポン再興」

【まとめ】   

・中谷健太郎は質の高いまちづくりを目指した。

・目指したのはドイツの『緑』と『空間』と『静けさ』。

・世代を超えた改革の「魂」により由布院の活性化は進む。

 

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前回お伝えした、由布院の料理全体のレベルを上げた料理人の新江憲一が尊敬してやまない人物がいる。老舗旅館「亀の井別荘」の経営者、中谷健太郎である。80代半ばの長老だ。

 

「若いころから『ほらケン』というのがあだ名でした。できそうもない大きなことを言っていたからです」。

 

中谷は高度成長期に、由布院を再生した立役者だ。大分県内の別府の影に隠れていた由布院を全国的に有名にした。同じく由布院の老舗旅館・「玉の湯」の経営者、溝口薫平と一緒に、改革の旗を振った。「別府のマネをするな」。それが原点だった。

 

若い時、最初に直面したのはゴルフ場の建設計画だった。中谷はそれに反対し、自然と農村風景を生かした温泉地づくりを標榜した。外の大きな資本を受け入れず、独立の松明を掲げ続けた。

 

その後、ドイツを訪問。まちづくりの原点を学んだ。自然豊かな環境で、客にゆっくりと、長時間滞在してもらうスタイルだった。高度成長期、はやった大型旅館や団体旅行とは一線を画した。「大きいことはいいことだ」と言われる時代に、「小さいことは美しい」をモットーにした。

 

この旅行、ネックとなったのはお金である。1ドル=360円の時代だ。格安チケットもなく、航空運賃も高い。銀行から融資を受けようと思ったが、貸してはくれない。窮地を救ってくれたのは、町長だった岩男穎一(いわおひでかず)だった。岩男は3人の保証人になり、1人70万円の融資が受けられるにようにしてくれた。さらに、町の臨時嘱託という身分にして、調査費名目で10万円上乗せしてくれた。

 

岩男はこんな言葉で送り出したという。「世界をよく見てきてくれ。必ず元気に戻ってきてくれ」。私は中谷の話を聞きながら、50年、100年続く、まちづくりこそが重要だと痛感した。

 

ドイツには、洗練された公園と美しい町並みがあった。花が咲き、小鳥がさえずる。この町では、静けさを守るため、深夜と昼下がりには車を締め出し、質の高いサービスを行っていた。由布院の目指すべき町だと実感した。さらに、小さなホテルのオーナーの言葉は由布院のまちづくりの方向を決定づけた。

 

「町にとって最も大切なモノは、『緑』と『空間』と『静けさ』です。私たちはこの3つを大切に思ってきた。私たちは100年かけて、町のあるべき姿をみんなで考えてきた。君たちは、まちづくりを始めたばかりだが、君らはそのために、何ができるのだ」

 

中谷はその後、ずっと由布院でまちづくりにかかわる。牛食い絶叫大会、音楽祭、映画祭など手作りでイベントを仕掛けた。

 

「まずは面白いと思うことをやりました。自分が面白いと思わなければ、他人にも面白さが伝わりません」。まちづくりの要諦は「面白がること」という。

▲ 中谷氏 出典:著者提供

中谷は滞在型を提唱する。「客さんが街の中を歩き始める。歩き始めると新しいお店ができる。そして町は自動的に活性化していく。旅館が宿泊客を囲い込んでいたら、町全体が収縮します。町全体が人を受け入れているのであって、旅館はそのごく一部に役割を担っている。それが僕の目指してきた町の姿です」

さらに「旅館は宿泊に特化し、仕出しや料理店でおいしいものを食べ、散策してアートを鑑賞し、本を読み音楽を聴く。いろんな楽しみの仕掛けが町にあったほうが活性化につながる」と続ける。自分の旅館で料理を食べなくてもいいと言い切る。狙いは、地域全体の底上げだ。

 

その中谷が灯した松明は今も引き継がれている。由布院を歩くと、中谷のDNAは至る所にある。前回お伝えした、著名料理人、新江憲一は、地域の料理全体のレベルを底上げするため、レシピを共有化した。「僕は健太郎さんからバトンを渡された。四苦八苦していますが、健太郎さんらが火をつけた流れは変えてはいけません」と語る。

 

岩男、中谷、新江・・・由布院の町には、世代を超えた改革の「魂」が宿る。それが共感を呼ぶ。ハコモノで観光客が訪れるわけではない。

トップ写真:由布院 出典:著者提供