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日本改鋳3「日本の失われた30年と江副浩正氏」続:身捨つるほどの祖国はありや 7

牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・リクルートを興した江副浩正氏について書いた「起業の天才!」なる本を読んだ。

・江副氏は1995年当時、インターネット社会の到来を予言していた。

・『失われた30年 どうする日本』という特別プロジェクトを立ち上げ、田原総一朗氏や寺島実郎氏らと次世代のための日本を考えていく。

 

江副浩正という人がいた。1936年に生まれて76歳で亡くなった。

今、彼のことを、どれくらいの人々が覚えているだろうか?リクルートといえば知らない人はいないだろう。しかし、そのリクルートは江副氏が起こした企業であることは、大部分の人の記憶にあるだろうか。たとえ知ってはいても、江副氏の影は薄いのではないだろうか。

リクルート・ホールディングズは東証1部の上場の会社であり、時価総額が9兆円で日本第6位の巨大会社であるにもかかわらず、である。

起業の天才!』(大西康之、東洋経済刊)は面白かった。或る方に「読んでない?読んでみろ、一度読みだすと止まらないから」と言われた。私が人生の師とも恩人と思っている方である。

▲写真 「起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男」大西康之  (著) 、東洋経済新報社 出典:amazon

もちろん、さっそく読み始めた。

私は江副氏とお話しをしたことがある。あるホテルの開業パーティだった。私が話しかけると、一瞬彼がびくっと反応されたのを覚えている。無理もない。その2年ほど前に贈賄で逮捕され起訴されている身だったのだ。

もう30年前のことである。

『起業の天才!』を読みながら、私は永井荷風の『つゆのあとさき』の一節を思い出していた。

松崎老人という、以前は某省の高級役人だった男が、収賄で捕まりその時には大いに世間を騒がせた。この松崎老人は、失われたかつての地位や名誉と引換えに、出獄の後は生涯遊んで暮らせるだけの私財をつくっている、という設定である。一時の喧騒が終わった20年の後、自ら回顧して言う。

「松崎は世間に対すると共にまた自分の生涯に対しても同じように半ば慷慨し半ば冷嘲したいような沈痛な心持になる。そして人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉も褒貶も共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。」(七)

しかし、江副氏にとってのその後の時は松崎老人のようには過ぎなかった。

1989年にリクルートコスモス社の株の譲渡が贈賄として起訴された江副氏は、膨大な資産を使って大弁護団を組織し、「加わる弁護士は最終的に18人となり、ロッキード事件の田中弁護士団(14人)を上回った」という(409頁)。しかし、2003年、江副氏は有罪となった。懲役3年執行猶予5年という判決は「弁護士団にとっても検察にとっても控訴しにくいギリギリの線だった。」と著者は評する。(410頁)

その後、10年足らずの年月を江副氏は生きた。52歳で逮捕され、判決のときには66歳になっていた。その間も、「江副は依然としてリクルートの発行済株式の30%強を保有する大株主であり、日本有数の資産家だった。」(411頁)

問題はバブルの崩壊だった。「損切が早かった」とある(416頁)が、それでも「信用を補完するため『スポンサー』が必要だった。」(418頁)

ダイエーの中内功の登場である。江副氏は、1992年、リクルート社内の反発を抑えて、455億でリクルートの株をダイエーに売却した。毎日新聞の取材で事態が刻々と変化して行き、江副に惹かれて集まり逮捕後も江副を信じていた取締役達が、リクルート株を売るという江副に「親に捨てられた子供のように傷つき、憤った」場面は、圧巻である。(423頁)

江副氏の株売却なくしてダイエーの登場はあり得ず、ダイエーなくして再建はなかった。それは客観的事実だった。それでも人は心で動く。

江副氏は、GAFAの先駆けだったと著者は考えている。1995年に誕生したデジメという会社のことである。

「ようやく時代が江副に追いついてきた」と題する節の肝は以下の一文である。

「『リクルートの情報誌は、クライアントから、原価と乖離した法外な原稿料を取っています。そんなことができるのは書店やコンビニエンスストアで物理的な棚をリクルートが独占しているからですが、インターネットの時代になればこのアドバンテージが消えて今のような利益は稼げなくなる。われわれが率先してインターネットの商売を始め、潜在的な競争相手に進出する気をなくさせてしまうべきです。リクルートは出版社からインフォーメーション・プロバイダーになるべきです。』」(435頁)

借金返済のための苦しい中で、1995年、「たった7人の小さなチームが『情報革命』のを江副から引き継いだ。」「電子メディア事業部。通称『デジメ』である。」(436頁)

それが実るために資金を注ぎこみ続ける余裕が当時のリクルートにはなかった。リクルートを辞め外に活躍の場を見つけた人々の飛躍を、著者は、「デジメの中核メンバーは空に飛んだタンポポの種が別の場所で花を咲かせるように、日本のネット産業のあちらこちらで、その才能を開花させた。」と表現する。

1995年はWindows95が発売された年であり、のちに「インターネット元年」とよばれる。「その10年前に『紙の情報誌は終わる』と予言した江副が思い描いていた新しい情報産業の姿が、やっとおぼろげに見えてきた。」434頁)著者はベゾスが江副氏の買収した会社で働いていたことにも触れ、その10年前である1985年の時点で江副氏には未来が見えていた、と言う。それが「時代が江副に追いついてきた」という言葉の意味するところである。

この1985年、江副氏はリクルートの緊急マネージャー会議で「オール・ハンズ・オン 全員、甲板に出ろ」と言い放った。「『モノづくり王国』の日本で、『情報サービス』によって産業の頂点を極めようとする宣戦布告だった。」(269頁)

紙の情報誌で急上昇しつつあるリクルートで、江副氏は「放っておいても成長する『情報誌』のビジネスへの情熱を失いつつあった。」と著者はいう。(270頁)

なんということだろう、と私は思いながら、この部分に傍線を引いた。本の題名が『起業の天才!』であることを改めて思い出した。そうなのか、そういう風に世の中の先が見える人がいるのか、という感慨があった。

「信用できるのは大銀行や中央官庁で、起業家やベンチャーはいかがわしい。この価値観もまた、バブル崩壊から30年経っても日本経済が停滞から抜け出せない根本的な原因のひとつなのかもしれない。」442頁)

そう著者は総括する。

私は著者の大西さんがいかに敏腕の記者であったかを、取材の現場で存じ上げている。その大西さんの総括に私は改めて日本について考えた。

私は、『失われた30年 どうする日本』という特別プロジェクトを、私自身が理事長を務める日本コーポレート・ガバナンス・ネットワークで立ち上げている。田原総一朗さんと寺島実郎さんを始めとして、約1年をかけて、これはという方々にご講演をいただき、次の世代のための日本を多くの人々とともに考えるつもりである。リモートは有難い。会場なしに2000の人が集まることができる。

そこへ、東芝の社長が辞め、取締役会議長である社外取締役が再任を拒否される事件が起きた。すぐに後を追うように三菱電機の不祥事である。次々とメディアの取材を受けた私は、「信用できるのは大銀行や中央官庁で」はなくなってしまっている日本について話すしかなかった。

日本はどうするのか、どうなるのか。

「産業と経済は表裏一体である。市場と国家は、各々独立した論理で動く。ビジネスの世界だけが独立して存在していると考えるのは誤りである。」(兼原信克、産経新聞2021年6月30日)

兼原氏については、以前『歴史の教訓』(兼原信克、新潮社 2020年)を読んでいた。「国家安全保障局次長などをへて、政権中枢で日本外交の屋台骨を支えた著者」との篠田英朗氏の書評を読売新聞でよんで購入した本だった。

産経新聞の論考で、兼原氏は「問題は、日本の経済関係官庁に、長い経済と安保の遮断の結果、『町人国家』(天谷直弘・元通商産業省審議官)とも呼ぶべきマインドがしみついていることである。」と言い切る。

今回、江副氏について読むことで、情報産業が世の中を席捲する世界に取り残された観のある日本の、あり得たかもしれない可能性について知った。

しかし、江副氏はもういない。日本の未来は現在の先にしかない。

「令和の経済関係官庁には、市場経済至上主義を卒業して、自ら国家安全保障を担う主力官庁であるというアイデンティティを持ってほしいと願う」兼原氏の言(上記産経新聞)は、正に東芝事件の核心を射ている。

私は、いつも楽観的である。だから、私は、日本の次世代は世界をリードすると信じて生きている。

トップ写真:オフィス街を歩くサラリーマン(1985年8月1日) 出典:robert wallis/Corbis via Getty Images