「平成31年の年賀状」団塊の世代の物語(3)
【まとめ】
・「世の中の役に立ちたい」という願いは、弁護士として、文章書きとしてそれなりのことをしてきた。
・石原慎太郎さんは話題にならなくなったが、私の大脳のなかで生きている。
・石原さんが「今は自分の死にしか興味はない」と言っていた。他人事ではない。
最初の記憶はいつのことなのか。
2歳か3歳のときです。30代の父親が私を両腕に抱いて、腰より下くらいまでの海に立っていました。水につけられた私は、とても怖くて声をあげて泣いていました。
その周囲を6歳上の兄が平泳ぎでニコニコしながら泳いでいた、その光景。
福岡県の若松、玄界灘に面した小石海岸でのことでした。
小学1年生で東京の豊島区に移り、5年生で広島の人間になりました。
往時茫々。
もうしばらく生きているつもりです。その間に、少しでも世の中の役に立ちたいものだと思います。仕事で、私的生活で。
遂に片脚で椅子から立ち上がることができるようになりました。相変わらずの野心家なのです。
以上
そうか、平成という年号があったのだったと、いまさらのように思う。まだたったの6年だというのに、ずいぶんと昔のことのようだ。
私が生まれたのは昭和だった。替わるまでは昭和を意識したことはなかった。あたりまえのように昭和で、それしかなかったのだ。それがとつぜん平成に替わった。覚えている。その日、私は築地にあった金扇という名の和食屋にいた。上品な老年の女将がいるお店だった。天皇陛下の崩御を知っていたから、1989年といっても、もう平成だったのだろう。新大橋通りに面したしゃれた料理屋だった。なんども、いろいろな人とかよったが、いまはもうない。
最初の記憶。
「30代の父親がいた」んだった。そうだった。
同じ父親が「東京の豊島区」の鉄筋アパートの前にある広場でボールをやさしく放り、私がバットを振り回していたこともあった。バットを握って歯をくいしばっている私の写真があったのを憶えている。東京でのことだから10歳かそれ以前。父親は45歳だろう。
若い。なんとも若かった。
玄界灘に面した小石海岸では、編み目の袋にいれた大量のサザエをぶらさげている人を見た記憶がある。羨ましかった。あの海岸には何回いったのだったろうか。6歳の夏まで小石海岸の近くに住んでいた。一人で行ったことはないはずだ。ヒトデをはじめて見たのもあの海岸だった。鮮やかな色彩だったが、食べられないんだよといわれた。ヒトデを口に入れてためしてみた気もするが、やはりそんなことはしたことはなかったのだろう。
若松から東京、そして広島。
10歳の少年が18歳で東京へ行き、74歳になっている。
「もうしばらく生きているつもりです。」と書いたのが5年前。しばらくという時間は経ってしまっている。「その間に、少しでも世の中の役に立ちたい」という願いはかなったろうか。「仕事」では実現したといえるだろう。弁護士の仕事は、なにをやっても法の支配に貢献できる素晴らしい仕事だからだ。たとえわずかであっても、日々仕事にはげんできた。
では、「私的生活」では?
文章を書くこともそれに含まれるだろうから、それなりのことはしてきている。ことに『日本の生き残る道』(幻冬舎 2021年)では、畏友で元財務次官の丹呉泰健氏に「君の言うとおりだ。政治頼みでは日本経済は復活しない。コーポレートガバナンスしかない。必要なら海外の力も借りるべきだ」とお褒めの言葉をいただき、以来、「丹呉3原則」と呼んでメディアでも講演でも話している。ほんの少し、わずかだろうが、「世の中の役」に立っているのかもしれない。
『我が師 石原慎太郎』(幻冬舎 2023年)はどうだろう?
ほんの2年ほど前に亡くなった石原さんが、いまはほとんど話題になることがない。江藤淳が「生きているうちが華なのよ、死んでしまったらお終い」と書いていたことを思いだす。そのとおりなのだなあと、石原さんがいなくなってからはつくづくと思い知らされる。あれほどの方が、死んだというだけで話頭にのぼらない。あの、セルリアン・タワーのB2であったお別れの会が、ほんとうにお別れの会だったのかとおもい返される。
しかし、私の大脳のなかには石原さんは生きている。
石原さんについては、BS11の「団塊物語」で、5月、見城徹さんに大いに語っていただく予定だ。
「片脚で椅子から立ち上がることができる」ようになったのは、5年前のことになるのか。この年賀状の案を書いたのは2018年の12月のこと。だから5年半前のことになる。つい先日トレーナーの方から770回目ですといわれた。コロナが流行り始めて4年。そのころから週に2回へとトレーニングの回数を増やしたのだった。
人間相手であるから、時刻の変更をお願いすることはあっても取り消すことはまずしない。一度そうしてしまえば、また同じことが起きてしまう気がするのだ。デジタル相手ではない、生身の人間の方との約束は取り消すことへの心理的なバリアが高い。だから続く。だから健康を維持できている。
最近出演したBS11の「団塊物語」というテレビ番組の1回目で、いま健康な理由をたずねられ即座に週2回のこの定期的な運動をあげた。66歳の正月にふと感じた体力の衰えが、高校生のときいらいの本格的な運動に心をむけるきっかけだったのだ。あの漠然とした、しかし確実なものとして感じさせられた老化の予感をはっきりとおぼえている。それで8年前のゴールデンウィーク明けに運動を始めたのだ。
こんなに長くつづくとはと心地よい感慨がある。続いている。どんなことよりも優先して取り組んでいるからだ。私のスケジュールの大半は私が決めることができる。だから、病気のとき以外は休んでいない。
初めて片脚で立ち上がってみてくださいとトレーナーの方にいわれたとき、私はピクリと動く気にもなれず、口で「とても無理です」とだけ反応した。
運動するたびに思う。同じ団塊の世代の人間のうちのどのくらいの割合がこうした定期的な運動にいそしんでいるのか、と。2年半前に亡くなった、1歳年上の方の姿を思い浮かべる。元気そうにしていて、急に痩せて、おやおやと心配していたら、半年ほどで元に戻られた。元気で仕事もつづけられている姿に安心していたら、入院されたとうかがった。訃報は2か月後だった。
「相変わらずの野心家」か。そうだよな、いまもむかしも、と自分でおかしくなる。
でも、なにへの野心だろうか。
欲望といいかえてみても、具体的ななにかは見えない。見えなくとも日夜こころをさいなむ。
「ゆゑだもあらぬこのなげき。
戀も憎みもあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも悩むか知らぬこそ
惱のうちの
なやみなれ。」
私は、ヴェルレーヌのこと「都に雨の降るごとく」と題する詩については、やはり鈴木信太郎の訳が好きだ。
「大地に屋根に降りしきる
雨の響きのしめやかさ。
うらさびわたる心には
おお 雨の音 雨の歌」
そして、題名のすぐあとに「都にはやかに雨が降る。(アルチュール ランボオ)」とプロローグが記されている。
その「ヴェルレーヌが息を引き取った ホテル」の最上階の部屋に21歳のヘミングウェイは部屋を借りて仕事場にしていた。(『移動祝祭日』高見浩訳 15頁 新潮文庫)
主に妻のハドリーのおかげで、「パリの平均的な労働者の平均的な年収の約十倍」の収入がありながら、「その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。」と『移動祝祭日』を結ぶ(同書300頁)。そう書かずにはいられないヘミングウェイの切実な、朽ち始めた精神が剥き出しになった物語だ。貧しく、野心に燃えていた、若く「ごく貧しく」、そうであればこそ「ごく幸せだった頃のパリ」と死の数年前に書いたヘミングウェイ。彼の、切れば血の流れてきそうな心がなんとも切ない。
私は、さいきん”A Moveable Feast”の朗読を原語でよく聴く。
他人事ではない気がする。
57歳で書き始めたパリの青年時代の回想といえば、自分にとってはまだまだ先のことのような気がする。が、死の4年前と思うとわからなくなるのだ。「死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」と徒然草155段にもあるとおりだ。
あの石原さんが、今は自分の死にしか興味はないと言っていたのはいくつのときのことだったか。
他人事ではない。
「団塊の世代の物語(3)」
「ふーん、そうやって突然ひとを訪ねるっている習慣はもう昔のことで、今の時代にはとっくに消えちゃったとおもっていたけど、こうやって思いがけずお会いすることになるっていうのは、なんだかいい感じだね。もうすっかり忘れていた感覚だったんだけど。あなたがこの僕に思いださせてくれるとはね」
「で、しょ」
英子はほんのすこし得意げに頬をゆるめた。意図して約束をとらなかったのにちがいなかった。
「で、ご次男と会社のことだったっけね。
でも、驚いたよ、あなたのご長男が長友君の子どもだったなんて」
「そう。あのときはああなる理由があったの。」
大木はその話には乗らなかった。
「ご次男の実父にあたる方が亡くなられて、その遺産のことでもめているんだったよね。
相手は実父にあたる方の亡くなられた配偶者との間に生まれた子どもと、それに広島興産ていう名の会社だったっけ」
弁護士の顔をして言葉をつづける。
「会社が相手かどうかはわからないわ。だって、私が代表取締役専務としてなにもかも取りしきってるんだから」
英子は広島弁をつかわない。そういえば、一階のロビーに迎えに行ってから一度も広島弁でしゃべっていないことに大木は気づいた。
「不思議だと思ってたんだ。斎藤峰夫氏は男性として妊娠させる能力がなかったんだよね。だから峰夫氏のご長男は血のつながりはないという話だった。それなのにどうしてあなたの子どもが峰夫氏の子どもなのか、って」
大木は英子が広島弁を使わないことには触れなかった。
しかし、英子の言葉づかいについては記憶があった。
小学生のころのこと、ひと夏大阪に行っていたという英子が急に大阪弁で喋り出したことがあったのだ。取りまきの女のこたちはすぐにそれにならった。
しばらしくしたらもとの広島弁に英子がもどり、まわりの女のこもそうなった。しかし、幼い大木の耳に響いたあの大阪弁はとても官能的だった気がする。そのときにはそんな表現をおもいついたわけではないが、仕事で大阪になんどもいくうちに、大阪の女性がつかう大阪弁が英子のつかった言葉をおもい出させ、その感覚には官能的という早熟な香りがふさわしい気がしたのだ。
「それに、斎藤峰夫氏に戸籍上の子どもがいるってのも不思議な話じゃないか」
「なにいってるの、決まってるじゃない」
英子は一瞬つめたい表情をみせると、口から食べ残しの小さなカスを吐きだすように言った。<バカねえ>という昔の英子の声がした。
「じゃ、斎藤氏の配偶者、つまり奥さんの不倫てわけか」
ゆっくりとあたま全体をしたにうごかして、英子がうなづいた。
「いやあ、おどろいたね。まるでレビ記の世界だね」
「小さな世界にいると、だれもが密接になるの」
こともなげだった。
「でも、どうしてあなたは峰夫氏の子どもを産むことができたの。女性を妊娠させる能力がなかったんだろう」
「そんなこと。なんだ、長友くんがとっくに説明済みかとおもってた。
峰夫はね、精子がすくないだけで、通常の方法では女を妊娠させられないの。だけど、医者に手伝ってもらえばできるのよ。そうやって作ったのが次男なの。みんな長友君のおかげ」
「そうなのか。そういえば、ああ、長友君、言ってたよ。大阪の産婦人科医を紹介したって。へえ、あれってそういう複雑な話だったのか」感に堪えないとでもいうようにうなづく。
<やっとわかってくれたのね、ありがとう>といわんばかりに英子がこんどは大きくうなづいた。大阪の産婦人科の医院での長かった日々のことを思いだしているんだろうなと大木は感じた。いろいろと大変なことがあったにちがいない。
「峰夫は認知しているし、問題ないと思ってるんだけど」
「問題は大ありさ。認知のほうは遺言でしているんだったけね」
「でも、峰夫の長男は峰夫の子じゃない。子どもができないから私たち苦労したんだから」
「私たちって、峰夫氏とあなただね」
決まりきったことを、といわんばかりに少し力をこめて英子がうなづく。
「私たちの子どもが欲しい、なのにどうしてもできない、ということになってから、私たち必死になったの。」
「だから二人で医者に行ったんだ」
「そう」
「で、医者に宣言されたわけだね、『峰夫さん、あなたは子どもができない身体です』って。
おどろいただろうね。」
「そりゃそうに決まっているじゃない。峰夫の長男は未だ成人していなかったのよ。それが自分の子じゃない?いったいなにがあったのかって、誰だってわかるでしょ」
「そう。峰夫さんの奧さんが不倫して子どもをつくったんだ。それを素知らぬふりをして峰夫の子どもとして届けた。」
「でも、それって峰夫さん自身が現在進行形の不倫の身で、あ、ごめんよ、あいてはあなただ」
「いいわよ、本当にそうだったんだから」
英子が鼻でわらった。
「ふーん、で、どうなったの」
「どっち?長友君に頼んだほう。それとも峰夫と奥さんのほう」
「いやあ、そうだね。長友君に頼んだほうはだいたいわかってるから、峰夫氏の奧さんのことから聞こうか」
「もういなかった」
「え?」
「もう死んでいなかったの」
「10年まえに亡くなったと言ったでしょう」
「峰夫、とっくに別れていたの」
「ふーん、でもあなたは峰夫氏とは結婚していないんでしょう」
「不思議?」
「とても」
「私は夫がいたの」
「でも、死んだ」
「そう。でも、峰夫も私も結婚は望まなかった」
「なぜ?」
「どうして、なぜなの?」
「だって、ふつう」
「ふつう、どうだっていうの?」
「好きな男と女がいて、二人ともフリーなら結婚するんじゃないの」
「じゃ、好きな男と女がいたんじゃないのかな」
英子との問答はなぞめいていた。が、なかみはない。そういえば、
と大木は思う。英子は子どものころからそういう掴みどころのない女性だった。
大木は嫡出否認と親子関係不存在についての最高裁の判例を思いうかべていた。
たとえ生物学的には親子関係が不存在でも、嫡出子としての推定のある子どもについては親子関係不存在で争うことは許されないとした判断だった。いまどき、という気もするが、最高裁で判決が出たのは平成26年7月17日のことだ。ちょうど10年前のことになる。
嫡出の推定はその否認訴訟のみによって争うことができ、それは子の出生を知ってから1年以内でなくてはならない。
「そのことは、最高裁判所の判例があってね」
「ハンレイ?」
「最高裁判所で決まったってことさ」
「でも、変えればいいじゃない」
「なかなかそうもいかないさ」
「だから、大木君、あなたのところへ来たんじゃない。なに言ってんのよ」
英子が唇の両端を左右に引きながら、頬と目とでかるく笑ってみせた。
「うん、僕も実は可能性はあると思ってる。有力な反対意見が最高裁判決にもあるしね」
「そりゃそうでしょ」
英子は最高裁の反対意見のことなど興味がないのだ。ものごとの筋道は自分のなかに確固として存在している、というふうだった。
「目的は峰夫氏のご長男に相続権がないことだね」
「そう。そうなれば峰夫の財産は会社ごとぜんぶ次男の悠次郎に行く」
「でも相手はかならず争う。きっと最高裁まで行くことになるよ。
問題は、それまでの間、3年は最低かな、ご長男が広島興産という会社のオーナーだっていうことだ」
「そんなことありない。
峰夫は遺言書を書いていて、そこには財産はぜんぶ悠次郎にやるってあるもの」
「えっ」
大木は言葉をうしなった。
そうとなれば話は根底からちがってくる。
「なんだ、そうだったの。
認知されたご次男がすべての財産を相続するってわけだ。
残る問題は、ご長男の遺留分だね。相続人は子どもふたりだけだから、遺留分は四分の一だ。だからご長男は広島興産の株式の四分の一にこだわるとはおもえないなあ。
仮にご長男なる方とあなたのご次男との二人で当分に株をわけても、9%はあなたがもっているんだから、ご長男とされている方は91%の半分、45.5%しか持ち分がないわけだ。」
英子がうす笑いを浮かべた気がした。錯覚かもしれないなと大木はおもいなおす。
「峰夫氏の遺産にどんなものがあるのか知らないけれど、ご長男としてみれば頑張って広島興産の株式の四分の一、最大45.5%を自分のものにしてみたって意味ないよね。悠次郎さんが峰夫氏の持っていた株の四分の三、つまりあなたの9%を除いた81%の四分の三。すくなくてもあなたとあわせて過半数は絶対だ」
そこで大木はスマホをとりだして計算をはじめた。
「ご長男の株は、遺言があるから、相続分どおりでも20.25%しかない。あなたの9%と悠次郎さんが相続する側だから過半数で支配権を握ることだけはまちがいない」
「でも、弁護士で作家の人が書いた『少数株主』っていう小説では、少数株主の権利があるってあった」
英子は意外と勉強していた。
「それに悠次郎が死んだら、広島興産は悠次郎の奧さんと子どもに行くんでしょ」
「問題?」
「悠次郎の子どもは奥さんのもの。だから、会社ごと他人のものになっちゃう」
「おいくつ、悠次郎さんて」
「33」
「じゃ、まだまだ大丈夫なんじゃないの」
「あなた、ずいぶん大ざっぱね。人間なにが起きるかわからないのよ」
「そりゃそうだけど」
「私が心配しているのは、広島興産の経営権
会社はいろいろな上場会社の少数株主なの
それをあなたに頼みたい。
親子上場している会社がねらい目だって、いつも峰夫が言っていた。だから、たくさんの会社の少数株を持っているのよ。
それを、生かしていきたいの。
私がやりたい。
私のアンチエイジングよ」
<そうかい。でも、そいつはまずいかもしれない>と大木は心のなかでつぶやいた。
大木自身が弁護士として、そうした少数株主の側の代理をいくつもしているのだ。
広島興産なる会社の利害と、そうした大木の代理している少数株主の利害が一致するとはかぎらない。
だいいち、そういうときには依頼者の了解をとらなくてはならないと弁護士倫理が定めている。いまでは弁護士基本規定と呼ばれているが、おなじことだ。
もし、すでに依頼されている会社と同じ上場会社の少数株を英子の会社が持っていれば、どちらの代理もできなくなるかもしれない。
「どこの株を持っているの」
大木はきいた。
「全部はおぼえてない。たくさんあるの。リストがある。
でも、これは峰夫のやり残した仕事だから、私が広島興産の代表者としてやりたいの。
だから、あなたにてつだってほしいの」
英子がテーブルのうえに小さな、血管の浮きだしてしまった両手をきちんとかさねて、深くあたまを下げた。爪はそのままの肉色でなにも塗られていない。下げた頭の髪は、左右にわけられ後ろでていねいにまとめられている。下げた頭の髪の分け目からほんの0.5ミリたらずの白髪が地肌から伸びてのぞいている。
<ああ、そうなんだ、74歳なんだ>
大木の胸に、英子を抱きしめたいような思いが走った。おたがい、いろいろなことがあっての74年だったよね、あのとき、幟町のウチに来てくれた日から62年になるんだものね。これは男女の欲望ではない。大木はそう感じた。
「ありがとう。
でもね、似たような仕事をいくつもしているから、コンフリクトを調べないとね」
「なに、コンフリクトって」
「一人の弁護士が原告と被告の両方の代理をするわけには行かないだろう」
「そのほうが話が早くていい気がするけど」
「おやおや、困ったことをおっしゃる」
「こうして広島から参上したんですから、お断りにならないでくださいね」
そのセリフは、英子がこれまでのビジネスで多用してきたのだろう。そうした粘り気のある声音だった。
「まあ、できるだけのことはさせていただきます」
大木が重い荷物を背負いこんだ瞬間だった。
トップ写真:外国特派員協会での記者会見に臨む石原慎太郎氏(2009年1月13日)出典:Kiyoshi Ota/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html