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ルーズベルト死去への貫太郎の哀悼に感動 「高岡発ニッポン再興」その25

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・東京大空襲後、鈴木貫太郎氏の総理就任を説得した山本玄峰と昭和天皇。

・敵国の大将ルーズベルトの死去を哀悼するという日本精神を則った鈴木貫太郎氏。

・「徹底抗戦」という陸軍を喜ばせる発言をしながら、終戦という最終目的を果たすリアリスト。

 

私が77歳で総理になった鈴木貫太郎を尊敬しているのは理由があります。まずは、スピード感です。就任4カ月間で終戦を実現したのです。自らは命を脅かす危険にさらされながらも、数千万人の命を救いたい。それが貫太郎の目的です。就任当初は、その目的実現のために、陸軍を暴走させない発言を繰り返しました。まさに目的達成のためのリアリストだったのです。私は高岡でも大きな目的を掲げながら、現実的に動く政治家になりたいと思います。鈴木貫太郎の人生を勉強するのは、市議会議員の私にとっても、ためになりますね。

鈴木貫太郎は、どうして終戦直前に総理に就任したのでしょうか。そもそものきっかけは、昭和20年3月10日未明の東京大空襲です。B29がマリアナ基地から飛び立ち、超低空飛行で、東京の下町に焼夷弾を落としました。東京の3分の1以上の面積が焼失し、10万人が死亡したといわれています。

日本政府内でも、これ以上戦争を続けることができないという見方が増えました。戦争をやめるには、決断力が必要です。小磯総理では困難とみられ、後継探しが始まりました。白羽の矢が立ったのは、鈴木貫太郎です。しかし、問題は本人が引き受けるかどうかでした。鈴木貫太郎は政治嫌いで知られ、権謀術数や裏取引などは大嫌いなのです。しかも、77歳という高齢です。

そこに説得役が現れるのです。この連載でもご紹介した、山本玄峰です。山本は高岡の国泰寺の末寺、全生庵を東京の拠点としていましたが、当時、日本で最も尊敬されている高僧でした。戦争をすぐに終わらせるべきだという考えを持っていたのです。

総理就任を内々に打診されて悩んでいた鈴木貫太郎は3月25日、山本玄峰に相談しました。

「私は海軍の人間です。『軍人が、政治に関与してはいけない』という明治天皇の教えを守ってきました。それなのに、総理大臣を受けるのは、明治天皇の教えに反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります」。

それに対し、玄峰はこう諭したのです。

「確かに、あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽くすことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは2・26事件で、一度あの世に行っている方だ。だから生死を乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただ戦争を止めさせるためですよ」。

小磯総理は4月5日退陣しました。この日の午後5時から重臣会議が開かれました。重臣4人は一致して、正式に鈴木を推戴したのです。

鈴木は改めて「軍人が、政治に関与してはいけない」という信念があるといって、断りましたが、昭和天皇は午後10時過ぎに、宮中御学問所に呼び出されました。昭和天皇は「鈴木の心境は、よく分かる。しかし、この重大なときに当たって、もうほかにひとはいない。頼むから承知してもらいない」とおっしゃったのです。

鈴木貫太郎は昭和天皇と話していた際には、きっと山本玄峰との会談のことも頭にあったに違いありません。結局引き受けるのです。

鈴木貫太郎内閣がスタートしました。

私が貫太郎の人間性を知るうえで、印象深いのは、総理就任直後の4月11日のエピソードです。アメリカのルーズベルト大統領が急死しました。ルーズベルトといえば、敵国の大将です。それなのに鈴木はこんな発言をするのです。

▲写真 ルーズベルト大統領(1936.01.01) 出典:Photo by Keystone Features/Getty Images

「今日の戦争において、アメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力がきわめてすぐれているからです。その偉大な大統領を今日失ったのですから、アメリカ国民にとっては、非常な悲しみであり、痛手でしょう」。

鈴木の哀悼の言葉が通信社を通じて、全世界を駆け巡ったのです。人間として敵味方の次元を超えて、人の死を悲しんだ発言です。これに対し、敗北寸前だったドイツのヒトラー総統はルーズベルト大統領の死について、「愚かな大統領として、歴史に残るだろう」との声明を出しました。世界では、ナチス・ドイツと比較して鈴木貫太郎の言葉に感動が広がりました。

ドイツ人の作家で当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは「ドイツ国民のみなさん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固としてあるのです。鈴木総理の高い精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないのですか」と訴えました。

しかし、貫太郎の弔電は、日本の陸軍からは批判の的です。青年将校らは激怒し、鈴木貫太郎に詰め寄りました。すると、鈴木は「古来より、日本精神の一つに、敵を愛す、ということがあります。私もその日本精神を則っただけです」と言い放ちました。

一方、就任直後は、終戦の決断を期待していた人たちからは、貫太郎の言動に落乱の声が上がりました。貫太郎はしばらく、徹底抗戦の構えを示していたからです。総理就任後、すぐには終戦を言い出さなかった点について、前回にも登場した作家の半藤一利さんはこんな見方を示しました。早急に終戦を言い出せば、陸軍がクーデターを起こし、終戦工作は一気に吹き飛ぶ恐れがあったというのです。

「鈴木貫太郎自身は海軍の軍人さんです。日露戦争でも戦ったものすごい鬼貫太郎と言われるくらいの、勇敢な軍人だったわけです。彼は、侍従長の時に、例の2・26事件で襲撃されています。4発ピストルの弾を撃たれて、1発は死ぬまで体の中に残っていました。そんな危険な目もあっているわけですから、陸軍の何を考え、まだどういう行動に出るかということもわかっていたと思いますよね」。

鈴木貫太郎は結局、陸軍との神経戦を繰り広げたことになります。終戦という最終目的を果たすためには、「徹底抗戦」という陸軍を喜ばせる発言もしなければならない。リアリストでもあります。そして、就任からわずか4カ月で終戦を成し遂げたのです。もちろん陸軍の強硬派もいて、命がけでした。ただ、このまま本土決戦になれば、数千万人の死者が出る恐れがある。それだけは避けたいという信念だったのです。

ルーズベルト弔電で見せた日本の武士道精神。これを貫きながら、終戦という最終目的を達成するためには、当初は陸軍を暴走させないような発言。鈴木貫太郎あっぱれですね。政治家になって8カ月、私は、改めて貫太郎を勉強すべきだと思っています。

トップ写真:東京大空襲(1945年撮影) 出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images