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安倍元総理の死と石原慎太郎の死 続:身捨つるほどの祖国はありや 20

TOKYO - SEPTEMBER 26: Newly elected Japanese Prime Minister Shinzo Abe during a press conference at the Prime Minister's Official Residence September 26, 2006 in Tokyo, Japan. Abe is elected as Japan's 90th prime minister at the lower house of the Parliament and his new cabinet members will be announced today. (Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images)

牛島信(弁護士・小説家・元検事)

 

【まとめ】

・信念を貫く政治家は、自らに突然の死が降りかかる事態があり得ると分かっている。安倍元総理にも同じ覚悟があったろう。

・「死に甲斐」を求めた石原慎太郎は、もし生前に安倍元総理横死の報に接していたら、三島由紀夫を思い出しただろう。

・石原さんの真価を日本人が知るのはまだ先か。歴史が安倍元総理の次に記憶するのは、石原さんか、三島か。

 

安倍晋三元総理が殺された。突然の死。政治家を暴力的に殺す。テロ

 

私はシーザーを思い出した。最も理想的な死は突然の、思いもかけない死であると言っていたシーザーを。ジュリアス・シーザーは政治家である。決して突然の死を望んでいたのではない。ただ、自分の使命、天命を果たすべく動いている身には、突然の死が降りかかることはあり得ると分かっていたのだ。

 

自らの決意が固かったがゆえに、どんな目に遭うとしても、それを貫くのだという信念があったということである。したがって、理想に燃える政治家は、わが身に突然の死が降りかかる事態があり得ることをあらかじめ受け入れ、そのうえで行動しているということになる。理想に殉じる覚悟がなければ、政治家として権力をふるうことはできないという冷静な認識である。権力とは合意の無い場合でも自分の考えを貫く作用である。

 

そうした政治家への暴力行為の理非曲直などは、はなから明らかなことである。悪い。しかし、人の世には、警察の裏をかいて身勝手なことをするやからが少なからずいることは言うまでもない。

 

織田信長は、自らの突然の死について、是非もないと言ったと伝えられている。彼には、覚悟があったのである。そのうえでの、左右を顧みない断固たる言動があったのである。

 

安倍晋三元総理にも同じ覚悟があったろうと、私は思う。それでも、自分がしなければこの国は救われない。政治家の、権力を握り、信念を押し通すことへの覚悟である。使命、天命に従うことを知る者のみが有する心構えである。自分に反対する者はいるに違いない。なかには暴力に訴える愚か者もいるかもしれない。だが、決してひるまない。なぜなら、自分がひるんだら国が亡びると信じているからである。

 

もちろん警備は万全でなければならない。しかし、ケネディは殺害された。大統領だったからである。濱口雄幸は殺された。総理大臣だったからである。

 

なんども言う。安倍晋三元総理の死はテロであり、決して許されない。

いや、正確には、テロですらない。

テロは、以前にも書いたことがあるが、貧富の差がある限りなくならない。先進諸国から見れば、許すことのあり得ない犯罪である。だが、テロを敢行する側には、それなりの理由がある。

 

ジャレド・ダイアモンドは言っている。

「消費量の低い国は高い国々に対して敵意を持ち、テロリストを送ったり、低いほうから高いほうへと人口移動が起こるのを止められない。現在のように消費量の格差がある限り、世界は不安定なままです。ですから、安定した世界が生まれるためには、生活水準がほぼ均一に向かう必要がある」(吉成真由美『知の逆転』(NHK出版、2012)30頁のジャレド・ダイアモンド氏の発言部分。弊著『身捨つるほどの祖国はありや』89頁)。

 

いったい、安倍元総理の命を奪わなければならないどんな理由があり得るというのか。

ない。断じて、ない。

私がテロではないという理由である。政治家の殺害。犯罪。

安倍元総理の死は政治家の死である。非道な銃弾に倒れたのである。もう一度おなじことを言う。テロですらない。

 

遺された家族はどんな思いか。公的人間にも、大切な私的エリアが存在する。

写真)石原慎太郎氏(2003年4月13日 東京)

出典)Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images

 

安倍晋三元総理が狙撃されたと聞いて、私は石原さんとの対話を思いだしていた。

「もう、石原さんは三島さんにどうやってもかないませんね」

「どうしてだ?」

「だって、三島由紀夫は45歳で腹を切って死んだ。しかし、もうあなたは66歳だ」

「うるさい。俺は死にたくなったら石油を頭からかぶって死ぬ」

 

石原さんとこんな対話をした人間はいるのだろうか?

そもそも、なぜ私は石原さんに向かってあんなことを口にしたのだろうか?

 

たぶん、『三島由紀夫の日蝕』(新潮社 1991年刊)が背景にあったのだろう。そのやり取りの前、石原さんは、遠い遠い世界を見やるような視線で、少し目を細めて、

「三島さんは頭のいい人だった」と教えてくれたのだ。

しかし、『三島由紀夫の日蝕』のなかで、石原さんはあきらかに三島由紀夫の運動神経の決定的なまでの欠如を、三島由紀夫の全体像の理解に不可欠なものとして、あげつらっていた。だが、その三島由紀夫の死にかたに、もはや石原さんは及ぶことがないのではないか、と私は思っていたのだ。それで、率直に疑問をなげかけた。石原さんの答は、あきらかに憮然とした態のものだった。

その石原さんが、89歳で、膵臓癌で逝った。事前の告知を受け、ある限りの治療を試み、そのあげくの死だった。

石原慎太郎のお別れの会は、つい先月、6月9日にあったばかりである。安倍元総理も参列した。

 

もし石原さんが安倍元総理の死を知ったら、どう感じただろうか。

石原さんは、テロが、法的な是非の次元を超えて、歴史のうえではときとしてあり得ることを理解していた。

再度言う、安倍元総理の死はテロの結果ですらない。

しかし、政治家としての戦死である。

石原さんは、悲しみの後、身も世もなく嫉妬したのではないかと思われてならない。

石原さんはゆえあって政治に志し、36歳で選挙に出た。300万票を超える素晴らしい初陣だった。

衆議院に鞍替えした直後、都知事選挙に出て、敗れた。その後、衆議院議員として再スタートした。

その衆議院議員生活25年の表彰を受けた、その場の演説で辞職を宣言した。日本は宦官のような国になっていると述べて、だ。石原さんの25年間の衆議院議員生活は、結局無駄だったということである。

それは、石原さんなりのやり方で政界、永田町に処し、いかに努力しても容れられなかったという事実があったということである。

 

安倍晋三元総理は、それを軽々と飛び越えて総理大臣となった。そのうえ、体調で政権を投げ出すことになってしまっても、また返り咲いた。

そういう安倍元総理の公的生涯と突然の終焉に対して、石原さんは、同じ政治の世界、総理大臣の地位を目指した者として、身も世も無く嫉妬したにちがいないと思うのである。

どうして自分ではないのか、と。

 

安倍晋三元総理の横死の報にもし石原さんが接していたら、石原さんはきっと三島由紀夫のことを思い出していたろうと感ずる。なぜならば、衆議院議員を辞任する直前、石原さんは心のなかで三島由紀夫にこう話しかけていたのではないかと想像するからである。

「三島さん、あなたは正しかった。この俺は、議員になって、なにか想像を絶するほど素晴らしいことを、この世で、この日本で実現できるという野心を持っていた。

でも、違った。どうして人々があれほど愚かなのか、私にはわからない。

三島さん、あなたはそれが分かっていたんですね。だから、あんなことをしでかした挙句、自分で腹を切って死んだんですね。」

写真)演説する三島由紀夫(1970年11月25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地)

出典)Getty Images

であればこその、「どうしてだ?」という、不愉快な口調での私への反問だったのだろう。

いまにして分かる。あれは石原さんが衆議院議員を辞めて後、都知事に再度立候補するまでの、ほんの短い期間でのやり取りだった。

その短い期間については、石原さん本人が遺作の『「私」という男の生涯』(幻冬舎 2022年刊)のなかで、「永年勤続の表彰を受けて議員を辞めた後の四年間は、私の人生の中でのまさにオアシスとも言えそうな時間帯だった。」と書きしるしている。

 

私は信じない。そう思った瞬間もあったろうとは理解はする。しかし、私は信じない。石原さんは、いわば神に魅入られた男だったからだ。オアシスは、砂漠に点在しているからオアシスなのだ。果てしない砂漠の渇きに絶望した人間だけが知るオアシスのうるおい。そうだったのだろうと思う。

 

なんにしても、石原さんの中には、このままでは、どこにも死に甲斐なぞないままに死ぬことになるということへの予感が溢れていたのだろう。それで、とっさの「死にたくなったら石油を頭からかぶって死ぬよ」という答えになった。

 

私は、石原さんの一番弱いところを突いた質問をしてしまったのかもしれない。

「あなたは、あなたの死が意味のあるものだと信じて死ぬことができますか?」

という問いかけをしてしまったのだろう。

死に甲斐。それは、自分を頼むところの大きな人間に共通する欲望なのである。

 

石原さんは、衆議院議員辞任のおりの記者会見で、ディーゼル車規制を始め、都知事の仕事を一定程度積極的に評価する趣旨の発言をしている。しかし、石原さんの目指したところの政治の世界が都にあったとは、私はまったく思っていない。

国、である。国防と外交を対象として含む政治の世界である。

 

13歳で敗戦を迎えた、いわば最後の日本人らしい日本人として、戦前の日本の良い部分を知る者として育ち、生き、若くして時代の寵児となった男。参議院選挙への出馬はそのシンデレラのような青年がお城に着いた場面だろう。しばらくは甘美な時間が過ぎていった。1975年には都知事選挙にすら出馬した。

 

しかし議院内閣制のもとにある国政にはそうした石原さんの純粋な、崇高な思考とは別のロジックで動く生き物だった。自分の選挙ならば当選する。なんの心配もない。だが、総理への道は、もがけばもがくほど、その身から遠ざかってゆく。1989年、56歳のときに自民党総裁選に出馬して48票を取った。それも、なんとも寝覚めの悪い、見果てぬ夢でしかない。

 

石原さんの真価を日本人が知るには、もう少し時間がかかるのだろう。意外に早いかもしれない。

以前私は、ド・ゴールに触れて、「将来、日米同盟が消える日が来たら、その時になって我々はうろたえ、周囲を見回すのだ。もうどこにも政治家の石原氏はいない。我々の涙は地に吸い込まれるほかない。石原慎太郎氏とは、そういう政治家だったのである。」

と書いたことがあった。(『身捨つるほどの祖国はありや』81頁)

今もその思いは変わらない。

 

どうやら、確かなことは、歴史は安倍晋三元総理をもっとも記憶するだろうということである。

すると、歴史は、石原慎太郎と三島由紀夫のどちらを記憶するだろうか?

トップ写真:第90代内閣総理大臣に就任し、記者会見に臨む安倍晋三氏(2006年9月26日 首相官邸)

出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images