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.社会  投稿日:2022/12/14

「石原さんとの私的思い出9」続:身捨つるほどの祖国はありや25


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・小説『火の島』について石原さんとのやりとりが始まったのは、2002年5月10日だった。以来、幾度となく小説作りの相談を受けた。

・石原さんは、ワープロを使って物を書くという道を見つけて以来、たとえ脳梗塞になっても死ぬ理由などなくなっていた。

存在しているのは石原慎太郎という一人の人間ということであって、都知事も作家も、そのある部分でしかない。

 

火の島』(幻冬舎2008年11月15日刊)についての石原さんと私とのやりとりが始まったのは、2002年、平成14年の5月10日だった。石原さんがわざわざ私の事務所にお見えになって、事務所の会議室のホワイトボードを使っての相談ごとが初回だった。

ちなみに、『火の島』が出版されると、2008年12月3日に石原慎太郎事務所の方がわざわざ私の事務所に届けてくださった。

見開きには、なんと、石原さんの自筆で、

「君ありてこの本成りぬ 感謝多謝」と書かれている。その左側の頁、見返しの遊びというらしいが、そこにも、やはり石原さんの筆跡で「牛島信様」とある。

『火の島』なるタイトルがいつ、どうして決まったのか、私は知らない。

麻布台の住所の印刷された封筒に入ったゲラを、石原慎太郎事務所から送っていただいたのが2006年11月6日のことだとははっきりしている。だから、その時点では『火の島』というのが小説のタイトルに決まっていると私が知っていたことになる。

火の島?あ、火山か。じゃあ、きっと石原さんがヨットでよく行っていた伊豆七島のどこかの島かな、伊豆大島なのかなといったていどのことしか考えなかった。それが実は、『男の海』(1973年 集英社)に出てくる三宅島だったとは。

三宅島については、すでにこの本のなかで書いている。「慎太郎も見てやらなくてはかわいそうだよ」という場面である。

しかし、この『火の島』という題名の小説について話す機会があるたびに、石原さんが、男と女の話なんだよ、長くて複雑は関係があってね、今回は大きな金がからむんだ、会社の乗っ取りとかあってね、と嬉しそうに話していたのを私はおぼえている。

石原さんは、

「一族会社でね、公開していない会社なんだよ。竹中工務店みたいなね」

と切り出した。その会社。A社の社長の実弟が親会社、Aホールディング実質の責任者なんだ。」

石原さんは私に対して、自分の新しい小説の構想を話し始めた。私が、わからないことがあるたびに口をはさんで、石原さんが説明し、それでは会社としておかしいと私が解説する、そうすると石原さんが、じゃこうしよう、と言って、どんどん中身が膨らんでいく。私の事務所の会議室が、そうした小説作りの作業現場になっていた。

ホワイトボートに「A社」と書いて丸で囲み、その右に「A .Holding」と書かれていて、同じように丸で囲まれている。

A. Holdingから左むきに矢印が出ていてA社に届いている。その矢印の下に書かれた100%という数字が、A. Holdingの持っているA社の株の割合を示している。要するに完全に子会社ということだ。

ところが、その100%という数字のすぐ下に、51%と別の数字が書かれていて、その51%の右側に上向きの矢印が書かれている。保有株数の減少とその後の増加を示しているのか。石原さんのスト―リーがそれを必要としたのだろう。

ボードに書き込んだのは私なのだし、もちろん石原さんの考えを聞きながら図表化していったのだが、今となっては詳細はわからない。そんな、密度の濃い、二人切りで石原さんの新しい小説の構想を固めていくための時間を過ごしたということだ。

A .Holdingなる会社そのものの株主は、「弟」が51%とある。他にも株主がいることを示すように、何本かの実線が外向きに伸びている。

その弟から右に矢印が出ていて、その先は「女」とあり、意味ありげにすぐ横に「元」とあって、その二つの文字を合わせて一つの丸で囲んである。

つまり、これが弟からその株が、昔の女に流れるという発展を示しているという設定を意味しているのだ。

この丸で囲まれた「女 元」にはCという人物からの矢印が下から届いていて、さらにそのCにはTという文字からの矢印が左下から届いている。Tからは、直接「女 元」にも矢印が出ているが、斜線で消されている。

石原さんと会社の支配構造の話をしている途中で、私が消したのだろう。

「このCというのは暴力団なんだ」と石原さん。

私は、二人だけの部屋で、熱心に自分のアイデアについて話す石原さんの姿を眺めながら、何十年も前に読んだ石原さんのセリフを思い出していた。

それは、大江健三郎との対談だった気がする。

「政治家をしていて忙しいけれど、でも、だからこそ、パーコレーターで淹れたコーヒーのように、濃い、芳醇なものができ上りつつあるんだ。」

その発言に、そもそも小説家業を廃業して政治家業を始めたものと思っていた私は、少し無理をしているなと感じた。それにパーコレーターで淹れたコーヒーは芳醇どころか、香りが飛んでしまっているものだ。

ついでに記すと、大江健三郎が、政治家になると宣言し、参議院選挙への出馬を表明した石原さんに、どの新聞でだったか、「石原慎太郎よ、どうして文学を棄てるのだ。小説家にわからないどんなことがこの世にあるというのか」という趣旨のことを言っていた。

当時、18歳だった私は、大江健三郎の言うことはおかしなことだと感じた。大江健三郎の、どうにもならない、つまり自分が政治家になるべく立候補することはできない、それなのに石原慎太郎はそれをやすやすとやってのける、どうにもならない程の嫉妬だな、と感じていたと思う。なだいなだだったか、どこかの新聞に、石原さんの参議院選挙出馬に触れ、社会党はどうやってでも大江健三郎を説得して、同じ参議院選挙に出馬してもらうべきだ、と述べていた。選挙という観点からみて、大江健三郎にそれほどの大衆性があるわけでないのに、おかしな話だなとしかしか思わなかった。

それほどに、石原さんの、35歳での政治参加宣言は、石原さんでしかなし得ない大事件だったのだ。

目の前で新しい小説のプロットについて熱心に説明している人は、都知事の職にある人だという事実を忘れさせた。

私の手元に、ノーマンメーラーの全集発行に際しての、B6版の半分ほどの水色の小さな紙片がある。昭和44年に出始めたようだから、私は19歳だった。

「新潮社版 ノーマンメーラー全集 推薦の言葉」と3行の横書きの下に、どちらも、今となってはとても若い、石原さんと大江健三郎の二人の顔写真があって、それぞれの短い文章が記されている。私はその小さな紙片を長い間大切にしまっていた。石原さんは、もちろん未だ慎太郎刈りの短い髪形である。

石原さんは、「現代、日本の作家が見習うべきは、彼の文体などではなく、彼の小説に対する希望と信頼ではなかろうか。」とある。

そういえば、と私は思う。三島由紀夫が短い髪形に変えたのは、石原さんの慎太郎刈りと関係があるのではないだろうか。それほどに、三島由紀夫の石原慎太郎コンプレックスは大きかったと思っているのである。あの、昔の文藝春秋社の屋上での写真。あのときには確かに三島氏は長い髪を整髪料でぴったりとなでつけている。大蔵省に入った時、その後の四谷駅近くでの写真の三島氏も、当然同じである。

石原さんは、あまりに多くのものを持ち過ぎていた。若くして『太陽の季節』という価値紊乱小説を書いて、あっという間に芥川賞をもらい、以来、映画にまで出演した。三島由紀夫が映画に出たのも石原さんへの対抗心の類なのだろうが、しょせん、見栄えが違った。容貌と身長が決定的に違ったのだ。もちろん、三島由紀夫が悪いのではない。石原さんが、あまりに素敵で格好が良かったということだ。加えて、石原さんのいう、運動神経のある人間とない人間の落差はどうしようもなかったろう。

それで三島由紀夫は、結局、腹を切ってしぬしかないところへ自らを追い詰めてしまったのではないかと、私は秘かに疑っている。確かに、死にかたでは三島由紀夫と石原さんとは決定的に違う。年齢も45歳と89歳。石原さんは、自分で死にたくなったりはしなかったから、私に告げたように「死にたくなったら頭から石油をかぶって死ぬ」こともなかった。しかし、歴史に残る死にかたとして語り継がれるのはどちらかと問うなら、これはもう絶対的に三島由紀夫である。誰にたずねてもそう答えるだろう。三島由紀夫は、死の直前、「俺はついに石原に勝ったぞ」と凱歌をあげたのだろうか。私にはわからない。

▲写真 三島由紀夫(1969 年頃) 出典:Photo by Bernard Krishner/Pix/Michael Ochs Archives/Getty Images

そう言えば、石原さんは『「私」という男の生涯 』のなかで、「この今になって同じ脳梗塞で倒れ、今の自分は昔の自分で亡くなったと自戒して自殺してしまった」と江藤淳の自決に触れたうえで、「江藤淳を思い出すが、正しく今はかつての私ではなくなった自分を咎めて自殺するつもりは絶対にありはしない。」と言い放っている。(199頁)

その理由というのが、「もし今私の手元にワープロなる新しい機材がなければ物を書けなくなった私は当然自殺していたことだろう。」とあるとおり(199頁)、物が書けるという事実にかかっているのだ。

すると、「死にたくなったら石油を頭からかぶって死ぬ」と私に言ったのは何だったのか。強い反発はあったが、絶対に自殺なんてしないという趣はなかった。それどころか、私の勝手な考えでは、石原さんは高校生のときに一度自殺未遂をやっているような気がしてならない。『灰色の教室』の宮下嘉津彦少年のことである。未だワープロを使い始めていなかっただけかもしれない。だから自殺もあり得る選択肢だったのかもしれない。なんせ四半世紀も前のことなのだ。

もっとも、石原さんが自分のことについても他人のことについても、事実と外れることを気にしないで喋ることがある人だということは、私は、例えば伊藤整の『変容』についての石原さんとのやり取りの件でよくわかっている。なんといっても、石原さんは小説家なのだし、私との話は小説を書くことについての話なのだ。事実よりも自分の感覚が大事だということだろう。わかる。

だが、よく考えて見れば、石原さんの言っていることは一貫しているとも言える。物が書けなくなれば江藤淳のように「当然」自殺する。しかし、ワープロのおかげで物が書けるから、自分は自殺などしない。死にたくなるどころか、書きたいことが頭に、心に溢れかえり、2014年には『やや暴力的に』(文藝春秋社 2014年刊)という短編集を出しているほどだ。2014年は石原さん82歳の時である。「好評だった」(『「私」という男の生涯』200頁)と気をよくしていることからしても、ありがとうございます。

ということなのだろう。

ところが、その石原さんは、「三ヶ月くらいでしょうかね」と信頼する医師の宣告を受けて、「私の神経は引き裂かれたと言うほかない」と告白することになる。

「死は放り出したくなるような矮小なものに堕してしまった。」という石原さんは、「江藤淳が肉体の衰弱に嫌気がさして自分を裁いてしまったのに通うものがあると思う。」と言わずにおれなくなってしまうのだ。死後に出版された『絶筆』(文藝春秋社 2022年刊)所収の『死への道程』(128頁)に、その悲痛とも投げやりとも甘美ともとれる叙述はある。

私の事務所の会議室での話に戻ろう。

話すにつれ石原さんの話はだんだんと具体性を帯びたものになっていった。

「この、A社の社長は実弟の兄貴なんだよ。でも、親会社は実弟が責任者になっている。

その実弟が、親会社の責任者なのに、これが昔の女、この『女 元』とだな、ヨリをもどしてしまう。そのあげく、あろうことか、A. Holding社の株の名義を自分から彼女に替えてしまうんだよ。

そいつがツマヅキの始まりってわけだ。

その女は行方不明になっちゃって、おまけに二人の兄弟のオヤジが事故で死ぬ。それも普通の事故じゃないんだ。

ツマヅキっていうのは、女が貰ったA社の株をCっていう暴力団の手に渡っしてしまうっていうお粗末な話だ。

その株が暴力団のC組の手に入って、A社はゆすられることになる。

もう一つのストーリーがあってね。

A社はB社と土地を交換で手に入れる。ところがB社は裏金で20億をA社に払えって要求するんだな。A社にとっては、他の所有地に隣接しているから、どうしても手に入れたい土地だった。それで、そのB社の無茶な要求を受け入れる。そしたら、B社は、20億を必ず払いますっていう念書を入れろ、書面にしろ、とA社に迫るんだ。A社の担当だった常務取締役が、A社には黙ったままそいつを出してしまう。

ここで、暴力団のC組の登場だ。

C組はB社にも食い込んでいてね。それで、A社がB社あてに出した「20億払います」っていう念書のコピーを手に入れてしまう。

C組がA社をゆすり始めるっているわけだ。

B社はB社で、A社に対して、念書を持っていることをネタに、A. Holdingの役員にしろとかA社の事業に参画させろって要求し出す。なんせ、念書が20億を裏金で出すっていう脱税の話だからね。

この辺のストーリー作りは、私の知恵が石原さんに取り入れられた部分の一つだ。交換と交換対象の二つの土地の価値の差額の支払い、その限度、限度を超えた裏金支払いの約束が行われることがあること、その場合は交換が無効になるだけではすまないこと、などなど。

話が一段落したところだったか、石原さんはこんなことを言いだした。

「あなたの作品でも、一人の経営者にモノローグをさせてみると、作品に幅が出るんじゃないかな。

 ぐっと人間っぽくなる。

 そして、最後に誰かが介入してくるんだ。そこで物語が大きく屈折して、発展する

と示唆してくれた。

5月10日のミーティングの次には、7月25日に電話をいただいた。

13時15分に電話をいただいたのだが、私は外出していて、秘書がその旨を伝えると、

「お話ししたいことがありますので10分ほど電話で時間をいただきたい」とのことだった。秘書が15時過ぎに私が戻ると伝えると、「15時30分ころ改めて電話します」と秘書に伝言を頼んで電話は切れたという。

私には、石原さんと私の秘書の電話のやりとりが容易に想像できる。

先ず、自分で電話をかける。秘書が出てきたら、丁寧に話しかける。相手の都合を聞いて、それに合わせてスケジュールを決める。

決して、自分の都合を押しつけることはない。

そういう方だった。いつもそうだった。

その日二度目の電話は15時40分にかかってきた。17分間お話ししている。

石原さんは、

「会社としては、竹中とかサントリーみたいな同族会社で一流のところを想定している。

 建設会社のつもりだ。

 土地のスワップをやるわけなんだけど、脱税になってしまう。例の裏金の念書でね。

 それが或る筋にばれる。

 ヤクザの組織だ。

 その組織が、ホールディング会社の株を入手して、株主総会に呼べ、って要求してくる。

 会社としては、要求どおり呼ばざるを得ない、ということなんだな。」

そんな、石原さんの小説についての話をひとしきりした後、石原さんはこんなことを言いだした。

「人を探すって物語ってのは面白いんだよね。

戦前の本だけど、デミトリオスの棺っていう、エリック・アンブラっていう作家が書いた本がある。いろいろな人に訊きまわって、或る男のことを探す話なんだ。」

昔のスパイ小説として名高い本だ。私は本の名をメモしてくるくらいだから、教えてもらって直ぐに買ったに違いない。しかし、直ぐに読んだのかどうかおぼえていない。いずれにしても、いま手元にあることは確かなのだろうが、たくさんの蔵書のどこに埋もれているものやら見当もつかない。

その次は、記憶の限りでは2005年4月12日に飛ぶ。

逗子からの電話だった。朝の10時3分にかかってきた。

私がすぐに取れなくて、かけ直させていただいたのはこの電話だったような気がする。

石原さんは「この電話、リビングでとったから、いまから書斎に移動します。あなたとはゆっくりと話したいので。」と言って、いったん電話を切られた。その日は火曜日だったから、あるいは風邪気味で自宅で休んでいると言われたときのことだったのだろうか。

のっけから、「人間の絡み合いなんだ。男と女。」

いつもの調子だった。

「竹中とかサントリーみたいなちゃんとした会社でね。

ところが、持ち株が知的ヤクザに流れてしまって、会社に踏み込んでくるんだ。

他の会社とバーターにしと、とか要求されてね。

土地の交換の差額を隠れて裏金で払うっていう念書が、その知的ヤクザに渡っちゃうんだな。」

3年来のテーマの話である。

公務が忙しくて、なかなか執筆の時間がとれなくて苛々しているのだろうなあ、と同情をしながらお話をうかがった。

「三宅島の災害を背景にしている。

 乗りこんできたのは切れ者のヤクザでね。問題の大企業の奥さんと幼ななじみなんだ。

 その切れ者自身は、親分の娘と結婚している。

 会社を脅す手段として、わざと生ものを送ってきたりしてね。

 子会社を作って、そこを勝手にさせろとか、その子会社に工場を造らせるとか、言いたい放題さ。

 こっちは、なんとか念書を取り戻そうと必死なんだな。」

私は、

「念書さえ取り戻せば助かる、と思っているという設定なんですね」

と答えた。

三宅島と聞いて、私は『男の海』に出てくる三宅島のことを思い出していた。「三宅島という恋人に遭遇出来て幸せという他ない」(同書121頁)と30代の石原さんが書いている。その恋人とのできごとなのか、と思いながら、電話の向こうの石原さんと問答していた。

翌日、4月13日に私の事務所でお会いしているから、たぶん、その電話でお会いする約束をしたのだろう。電話での話では、時間が足りなかったと感じられたに違いない。それほどに『火の島』の構想は煮詰まりつつも、おそらく公務に足を取られて進まないことへのどうしようもない苛立ちがあったのだろう。石原さんは、なんでも「一気呵成主義」なのだと自称していた。それが、前日の私への電話で一挙に霧が晴れ、遠くにあった最終地点が急に身近なものに感じられて、いてもたってもいられなくなったのではないだろうか。

私が青山のツインタワーにあった事務所を山王パークタワーへ移転したのが2004年の11月29日のことだったから、移転して直ぐ後にお見えになったということになる。

17年前のことである。

初めて青山のシティクラブ・オブ・トーキョーでお会いしてから6年が経っていた。初めてお会いした時の石原さんは、衆議院議員を辞めて、都知事になる前で、思いがけない人生のオアシス、「精神の洗浄期間の四年間」の最後のころのことになる。

石原さんは、その四年のあと、「私はまたまた政治なるものにまみえることになった。」と書いているが(『「私」という男の生涯』283頁)そんなはずはないだろう。衆議院議員を辞めても、政治と縁が切れるなどとは夢想だにしていなかったろう。だとすれば、大統領がない国なのだから、都知事は、石原さんにしてみれば、自然な選択になる。もっとも、残念ながら残された唯一の手にし得るものではあったにしても、石原さんにしてみれば小さなオモチャでしかなかったろうが。

以前にも書いたが、石原さんと私は17歳違いで同じ誕生日同士だから、私が『火の島』について石原さんと話していたころの石原さんは今の私の年齢だったことになる。そういうことなのかと思いながら、いまこうして石原さんとの細かいやりとりを思い返すと、いささかならず感慨が湧く。サマセット・モームが書いていたとおり、人は、生き、そして死ぬ。そういうことだ。

同じモームはこうも言っている。

「作家が現実に関与したことも時々はあった。それは作家としての活躍に悪影響を及ぼした。」(『サイング・アップ』(岩波文庫 274頁)

「僕と同世代できちんと小説を書いている作家はもういないでしょう。」

石原さんが、『本の話』という雑誌で『火の島』についてインタビューを受けたときの言葉だ。(『本の雑誌』2008年11月号 3頁)76歳である。

インタビューには「すべてを溶かす官能の物語」という題がつけられていた。

編集者によるまえがきに、「東京都知事として多忙を極める作家・石原慎太郎氏」と紹介がある。それを今回改めて読んで、私は石原さんの本質なんだなと感じた。存在しているのは石原慎太郎という一人の人間ということであって、都知事も作家も、そのある部分でしかない。おそらく、官能によって自らが溶けてゆくことを許している瞬間の石原慎太郎も同じことなのだろう。

私の事務所にお見えになられた石原さんは多弁だった。「非上場の建設会社でね。運送会社の持っていた土地が欲しくて、会社の土地を運送会社の土地とスワップするんだ。交換。

ところが、二つの土地の値段が違うから差額が出るんだよね。それを裏金で、何年かに分割して払う約束をする。で、念書を書くってわけだ。」

石原さんの話は、ますます具体的なものになっていた。

親会社、ホールディングに会長と社長がいてね。その社長に実弟がいる。二人のオヤジが会長。

社長の女房とヤクザ者とがたまたま幼馴染でね。」

幼馴染。

石原さんには、幼馴染という関係への奇妙なほどの執着がある。たとえば『公人』の賀屋興宣が恋した小学校の同級生。さらには、『絶筆』という短編集にある『遠い夢』の、手を繋いで歩いただけのやはり小学校の同級生、河野礼子という名の女性。

その女性は別の男性と結婚し、石原さんは彼女の弟を通じて初恋の女性の現況を聞く。弟が「僕が姉に、あなたのような人と一緒になってもらいたかったなあ」と言うと、石原さんは、「初恋というのはみんな淡くて脆いものだよ。それを黙って抱えて過ごすのが人生というものじゃないかね」と答える。(同書12頁)

石原さん88歳の作品である。

同じ本に出ている『空中の恋人』という、特攻機で死んだ男の初恋の女性。出撃の前夜、二人は結ばれる。

「初めて腕にする彼女の熱い身体」(同書20頁)

しかも、一度切りの交わりがあっただけで、男は特攻に往き、顔に大火傷を負い二十数年間戻らない。彼女は男の子供を身ごもり、産む。その子が育ち、男が死んだと信じた母親は再婚し子は無事に育つ。子は自衛隊のパイロットになり、実の父親と初めて会う。これも88歳の作品である。特攻に往って戻らなかった男の、心のうえでのモデルは石原さん自身に違いない。

石原さんには、官能という表現でしか顕現できないが、実はもっと奥底に肉体の交わり以前の男女の関係を痛切に思う気持ちが潜んでいる。

『「私」という男の生涯』には、石原さんを象徴する話が出ている。(24頁)

「同じクラスに色白の目鼻立ちのいい、人形のように可愛い女生徒がいた。…彼女をどこかの殿様のお姫様に仕立て私が臣下の侍として近づき、かしずくのを想像してみたりするようになっていた。」

それが、彼女が授業の最中におもらしをしたことだけで、「彼女への感情は呆気なくも軽蔑に代わってしまった。」

自ら解釈してみせる。

「あの一件の思い出は私に終生つきまとった私の天性の一つ、『好色』を暗示するものだったに違いない。」

わからない。

私は、代わりに、芥川龍之介がその或旧友へ送る手記に「ある友人に宛てた手記」の中で、「僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だったために急に愛を失ったのを覚えている。」と書いているのを思い出した。(芥川龍之介全集16巻4頁 岩波書店 1997年刊)石原さんは、好色という二字で、次々と女性を好きにならずにはおれない我が身を振り返ったのだろうか。

石原さんからは、未だ彼の頭の中にだけ存在する新しい小説のプロットが次々と披露された。

「社長の実弟が、自分の持っていた株を或る女に手放す、譲るんだ。すると、その株がいつの間にか、その社長の女房の幼馴染だったヤクザ者の手に入る。

ヤクザ者は、手に入れた株をネタに脅しにかかる。ホールディングのメンバーに入れろ、と要求するんだな。」

「取締役にしろ、っていうことですね?」

と私が確認の質問をする。

石原さんは、上機嫌で「法的に言えばそういうことになるんだね」と答えて、次に進む。

「その要求を会長が、『ノーだ』とハッキリと拒絶する。

で、そのヤクザは会長を殺す。

とうぜん警察が捜査に乗り出すんだが、レンタル・トラックで確証がつかめない。

会社の役員たちも、不自然な死だとは感じているんだけど、表に出したくないんだな。」

そう言ってから、石原さんは、

「その会長の葬式のシーンから小説は始まるんだよ。」

と教えてくれた。

「役員たちも念書について知っている前提なんだけどね、それをどうするかは、未だ決めていない。」

確かに、公刊された『火の島』は、会長の葬式のシーンから始まっている。

石原さんの話は、いつもそうだったのだが、話の途中で思いつくままに別の話題に跳ぶ。

その日は、「『ビザンチウムの夜』っていう、アーウィン・ショーの小説があってね。」と言いだした。

『ビザンチウムの夜』では、中年の男性映画脚本書きが、彼をインタビューしにきた、娘の年ほどに若く、頭の良い女性と恋に陥る。その結果、男は離婚してこの女性と、と思い詰める。中味からして、たぶん、そのころ石原さんはずいぶん年下の女性、それも石原さんにインタビューしたりした女性と深い、官能に満ち満ちた生活をしていたのだろう。ああ、この女性かなと鹿「『私』という男の生涯」を読まれた方なら気づくだろう。

「アーウィン・ショーは、若き獅子達っていう、映画になったのもあって、いいよ。」

と少し自分の内側に沈潜している表情になる。その女性との官能に満ちた生活を反芻していたに違いない。

「そう、『赤と黒』のマチルドとね」

とまた別の話になってしまった。

『赤と黒』は石原さんのお気に入りだった。石原さんは、湘南のお坊ちゃんという世評とちがって、自分のことを「叩き上げ」と形容していた。そんな石原さんには、『赤と黒』のジュリアン・ソレル、立身出世のためには女性を踏み台にすることを顧みない若い男、それでいながら、女性の愛に包まれてしまう男のことが、我が身のこととして感じられていたのだろう。

「財団があってね。音楽の」

と、石原さんは、書いている小説の話に戻ると、再び止まらないように話し始めた。

「皇后陛下が関係されているような、格式の高い財団なんだ。

社長の実弟てのが、その財団に入れこんで、会社の金を使い込む。会長がいなくなってしまって、後継ぎになった兄、つまり社長としては、自分の実弟が逮捕されるんじゃないかと恐れる。それで、或る決断をする。」

その辺はこれからだ、と言いながら、石原さんはとてもで、そこで私との対話は終わりになった。

その次は2005年4月19日だ。

わずか6日後のことである。

電話をいただいた。夕方、5時35分まで話していた。

前日の17時4分にお電話をいただいていて、秘書が私が外出中である旨をお伝えし、こちらから折り返しましょうかとうかがうと、石原さんは、

「いや、この間のお礼を申し上げたかっただけですから。また電話しますとお伝えください。」

というやり取りだった。

ところが、翌日の同じ時刻ころに電話がかかってきたのだ。

石原さんとしては、私に話したくてたまらなかったのだろう。それででも、私の邪魔をしてはいけないと、電話を返すように秘書に依頼はしなかった。

そういう方なのだ。

19日の電話では、石原さんは初めから高揚していた。

「プロット、だいぶ進んだよ。

1週間、逗子でやっていたんだ。」

「女の人のこと、ヤクザと。

ヤクザがホールディングの株を持っているっていう前提での話だからね、株主総会なんかでどんなことが現実にあるのか、知り合いの建設会社に訊いてみたんだ。解体とかいろいろなことがあるだろう、って。

ところが、ヤクザとの関係はありませんっていうんだな。」

私は、「そりゃそうでしょう。都知事に、上場会社が『実は裏金の処理を解体業者にしょわせてまして』なんて、仮にあったって、決して喋りませんよ。」

とコメントした。

「そりゃそうだな。

社外役員を会社が騙すとかして、とっちめるってのはどうかな。追い出したい一心で、会社がハメルんだ。」

「そうなると、社外役員は、たぶん取締役でしょうが、その立場に則って、けっこう反発できますよ。」

私がそう言うと、石原さんは、

「でも、兎に角、解体とかやらせて、うまく追い出すんだよ。」

と、詰めのための細かいプロットを模索している様子だった。

私は、「たとえばですよ、常務さんが、その常務という肩書を勝手に使って大きな取引をしてしまったとします。そしたら、そんな人は会社の方で怖くなって非常勤にしてしまうでしょうね。

そこで、その元常務が逆切れするっていうことはあり得ることかもしれません。」

と、仮定での法律論を述べた。

それがどう石原さんの役に立ったのか、満足したやり取りで電話は終わった。

2005年には、年末の12月31日にお電話をいただいた。

(つづく)

トップ写真:C40世界大都市気候先導グループのサミットに参加する石原慎太郎都知事(当時)2009年5月19日 韓国、ソウル 出典:Photo by Chung Sung-Jun/Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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