「石原慎太郎さんとの私的な思い出4」 続:身捨つるほどの祖国はありや 17
牛島信(弁護士・小説家・元検事)
【まとめ】
・雑誌「ミスター・ダンディ」番付に、芸能人に混じり、三島由紀夫と石原慎太郎2人が名を連ねていた。
・石原にとり賀屋興宣は「決定的な意味を持った人」だったのでは。自らの死についての語りが同じ。
・後の歴史家は『太陽の季節』を書いた作家として以外の石原慎太郎の全体像を理解できるだろうか。
それにしても石原さんという方は、どうしてあれほどの人気者だったのだろうか?
つい先日、三島由紀夫が死んで50年になるというのでテレビが特別番組をやっていた。
その番組のなかで、三島由紀夫の紹介の一環として、ミスター・ダンディなる番付けの週刊誌(『平凡パンチ』1967年5月8日号とあった)の記事が出てきた。もちろん、一位が三島由紀夫だから画面に出たのだ。しかし、私の目は、同じ画面の四位に石原慎太郎氏が存在していたことに引きつけられた。二位が三船敏郎とあるように、ほとんどが芸能人ばかりのこの番付で、この二人の小説家は上位を占めたのである。
時代、ということであろうか。そういえば、番付もいまではランキングと呼ぶ。
ついでに記しておくと、石原裕次郎は六位にすぎなかった。
1967年は、石原さん34歳、三島由紀夫42歳のときのことである。
その番組を観ながら、私は同じころ、昔に観た別のテレビの番組のことを思い出していた。
「男らしい男」は誰か、というテーマで、やはり三島由紀夫が一番だった記憶がある。
しかし、当時の私は、テレビが三島由紀夫を一番男らしい男に選んだことにとても不満だった。
私は、大江健三郎こそ一番男らしい男ではないか、と思っていたからである。思えば確かに昔の話ではある。
大江氏は、小説『セブンティーン』のせいで右翼につけ狙われ怯えていた。私はその話を聞いて、とても人間らしく、したがって真の意味で男らしい人だと評価していたのだ。外見だけが男としてそれらしいかどうかなどというのは軽薄きわまりないことであって、大事なのは身に危険が及ぶかもしれないことであっても表現をためらわない人生の態度であり、それでいながらいざ怯えるべき状況になってしまったら身も世もなく怖がる。それこそが、今の、つまりその時代の、男らしさではないかと感じていたのであろう。私は私なりに、鬱屈していたのである。
出版当時話題になった、また私にとって初めての大江氏との触れあいであった『個人的な体験』(1964年 新潮社)の、最後の場面での主人公の変化が、世の中では悪評さくさくだった。しかし世評と違って私にはとても好ましく思えたことがかかわっていたのだろうと思う。私は中学校の図書室で、出たばかりのその本を手にしたのだ。妻の出産のまさにその時に、自分の現在の人生から逃げよう、愛人とのアフリカ旅行に新しい人生の可能性を賭けようと願っていた主人公は、「現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです。」と、恩師でもあり義父でもある年上の男性に述懐する。(『個人的な体験』250頁 新潮文庫)それが、映画会社の重役にシナリオの変更を命じられて唯々諾々としたがったようだ、と不評さくさくさくだったのだ。三島由紀夫がその評の先頭にいた記憶がある。
ところで、「男らしい男」という番組で石原さんは?
たぶん、そのテレビ番組でも何人かの「男らしい男」の一人として紹介されたに決まっているが、まったくおぼえていない。未だ政治家になる前の石原さんだったような気がする。私といえば、自分の『太陽の季節』は、大学受験に成功した後にしか来ないと決めこんでいた。だから、高校時代、友人が石原さんの『若い獣』という小説を教えてくれても大きな関心を惹かなかった。私は受験に押しつぶされそうだったのだ。
それでも、私は、『文芸』誌(昭和41年1月号)に出ていた石原さんの『水際の塑像』を熱心に読んだ。16歳のときのことになる。とくに冒頭の父親に連れられての海岸、という部分が気になった。
「その頃私には、毎日曜日の朝、父と一緒に早起きし散歩する習慣があった。弟も一緒だった。」とある。
その情景は、処女作『灰色の教室』のなかに出てくる主人公義久の回想、
「鐘の響きで送られて去った時間は再びその音と共にゆっくり戻ってくるような気がする。
義久はうつくしい鐘の音に過ごした彼の幼稚園生活をふと思い出した。」とある場面と、私の心のなかで共振する。父親に手をとられて通った幼稚園の思い出。
『水際の塑像』は、船会社の小樽支店長をしていた父親に連れられて、一人の青年船員が沈没しかけた我が船を救うべく、ロープを体に縛って「真っ暗な、大嵐の海に一人で飛び込んでいった」、「もう助からないかもしれないと思っていたのだけれど、そうした」という場面に遭遇する場面の話に飛躍する。
一等(チヨツ)航海士(サー)と呼ばれていたその青年の、「全き静けさに形造られた塑像」が水際の塑像なのである。石原少年にとっては、自宅にも遊びにきて楽しませてくれる馴染みの船乗りだった。
どうして助からないかもしれないのに、誰のために海に、と問いかける息子に、石原さんの父親は、
「みんなのためにさ。そして、自分のためにもだ」と答える。
「自分」と問い返す息子に、更に重ねて、
「そうだよ、自分のためにもだ。どうせなら、黙って死ぬことはない。死ぬことだけなら、そんなにたいしたことはない。人間は、誰でもいつかは死ぬのだからな」と
「自分へ説くように」言う。
石原さんの父君は、三十代の終わりか四十になりたてのころ、初めての脳溢血の発作で倒れた。その後もなんどかの発作を繰り返し、自宅での絶食、日常どおりに毎度毎度の食事を繰り返す家族の目の前で、2週間の断食をするのだ。一度だけではない。そうしたたくさんの壮絶な療法を試す。しかし、遂に十数年の後、仕事中に会議室で倒れ、そのまま身まかる。石原さんは高校生だった。死に目には会っていない。
死の瞬間に間に合わなかった父親の死に顔に、石原さんは海に死んだ一等(チヨツ)航海士(サー)の凍てついた死に顔を重ねる。みんなのため、自分のために、真っ暗な大嵐の海に一人で飛び込んだ青年の塑像のような父親の顔。「死ぬことだけなら、そんなにたいしたことはない。人間は、誰でもいつかは死ぬのだから」と幼い石原少年に語り聞かせた父親。
私が『水際の塑像』を初めて読んだのは16歳のときである。何回か読んでいる。今回読み直してみて、滂沱の涙を禁じえなかった。そうか、そういう父親像が石原さんのなかにあったのか、と。
高校生のときに父親を亡くした石原さんにとって、あるいはこの人が父親代わりだったのではないかと私が想像している方がいる。賀屋興宣である。アメリカとの戦争を始めた東条英機内閣の大蔵大臣を務めた方で、戦前から大蔵省の大ボスである。
写真)賀屋興宣大蔵大臣(東条英機首相の左後ろの髭をたくわえた人物)(1943年)
どれほど大ボスだったかというと、身は巣鴨プリズンにありながら古巣の大蔵省に自室に引かせた電話で部下や外の議員らをリモート・コントロールし、たとえば、遺族扶助料を支払わせたほどの力を有していた。もちろん、大蔵省にいた元部下たちや国会議員らが賀屋興宣を深く尊敬していればこそ可能だったことである。
石原さんとの年齢差43年。賀屋興宣は東京裁判の結果、終身刑の判決となって昭和30年まで獄中にあった。それが昭和33年の選挙で衆議院議員となった。石原さんが初めて選挙に出馬し、300万以上の票をとって参議院議員となったのは昭和43年、1968年だから、賀屋興宣は79歳の衆議院議員として4回の当選を重ねている身だったことになる。
その賀屋興宣なる人物、意外なことに、私の尊敬する平川祐弘先生の『昭和の大戦とあの東京裁判』(河出書房新社 2022年)に登場する。なに、実のところ意外でもなんでもない。賀屋興宣は、平川先生にそう書かせるほどの重みをアメリカとの戦争の直前の日本で持っていたのである。平川先生は、
「石原慎太郎は議員となって賀屋興宣(一八八九~一九七七)代議士の人間的迫力に感銘した由である。」(同書308頁)と書いている。
平川先生は賀屋興宣の著書として『戦前・戦後八十年』(経済往来社 1976年)を紹介する。
「一九七二年に書かれたが、古本の値が突出して高い。A級戦争犯罪人とされた政治家の中でこの人の自伝は読むに値する、と思う人がいる証拠だろう。」とある。
平川先生の紹介を見るや、私は早速その「突出して高い」本を買い求めた。1万1,000円だった。
賀屋興宣については、石原さん自身が、『私の好きな日本人』(幻冬舎 2008年)で尊敬心を吐露している。日本史のなかから、織田信長を始め10人だけ選んだその一人としてである。「巨きなリアリスト」と副題がついている。
最近書かれた『死者との対話』(文藝春秋社2020年)所収の『死線を越えて』(『文学界』2017年10月号)でも、石原さんは、「私が政治家の中でただ一人私淑した無類のリアリスト」と評している。(164頁)
私は石原さんと賀屋興宣の話をしただろうか?記憶はよみがえってこない。賀屋興宣についての会話はあったかもしれないが、悲しいかな、おぼえていないのだ。日本が桁違いの国力のあるアメリカと3年も戦うことができたのは大蔵大臣だった賀屋興宣の力なんだよと石原さんに教えてもらったような気がしないでもない。誰かにそう言われたことだけは確かなので、やはり石原さんしかいないのかもしれない。考えてみれば、本をたくさん出している石原さんとは、二人でいた時に出た話なのか、石原さんが本に書いていたのを私が読んだだけで、実際に面と向かって二人で話したことではないのか、いまとなっては混然としてはっきりしないことがあるのだ。
いや、私は石原さんの『公人』という題の短編小説の話を、石原さんと直接にした気がする。私はあの小説は石原さんにしか書けないものだなと読んだ時から心に刻んでいたから、初めてお会いしたときに話していても少しも不思議ではない。
『公人』というのは、こんな稀有な純愛物語だ。(『遭難者』 新潮社 1992年所収 『文芸』誌 昭和48年1月号初出)
賀屋興宣と小学校の同級生だった美しい女生徒との間での、生涯にわたるプラトニックな恋愛関係が主題である。小学校を卒業してから長い間、一度も顔を合わせることのないままに、女性は賀屋興宣の大蔵官僚としての人事情報を、同じ公務員である旧制高等学校の教師である夫の持ち帰る官報の記載で追いかけ続け、賀屋興宣は賀屋興宣で、ある偶然で早くにその女性の夫が公務員であることを知り、同じように官報でいつも女性のことを、さらにはその夫が亡くなったことを含めて、把握していたというのだ。
そんな奇跡のようなことが本当にあるのだろうか?
しかし、石原さんは、その『私の好きな日本人』のなかで、賀屋興宣がみずから『私の履歴書』に簡潔に「十歳の時同級生の女の子に恋愛感情をいだいた。」と記している部分を引用している。(188頁)その引用は「私はまじめに彼女との結婚を考えたが、とても口にはだせなかった」と続くのだ。
石原さんは、小学生の男の子と女の子が出逢い、女の子が人妻となり、その夫が亡くなり、そのことを大蔵官僚となっていた男の子が官報で知って弔電を送ったこと、そして男は大蔵官僚から一転して戦犯として監獄に繋がれる身となり8年間をすごしたのち、衆議院議員となったこと、その直後に妻が亡くなったことを一つ一つ綴る。
最後、年老いて癌のために先に逝く女性を、閣僚となっていた男が病床に見舞い、眠っているその女性の塑像のような姿を確認し、目を覚ました女性がベッドから差し出した手の内になおも感じられるぬくもりを男性が懸命に感じとり、互いになにも言わず見つめ合うだけの別れの時間があったこと、さらには男性が公人としての予定を退けて葬儀の席に現れ、出棺まで黙って座っていたことまでを、抑制された筆致で淡々と物語る。
静かな激情が読む者の心をつかんで離さない名編である。
石原さんは亡くなった。
死について、『私の好きな日本人』に石原さんと賀屋興宣とのこういうやりとりがでてくる。石原さん45歳、賀屋興宣88歳。
石原さんがたずねる。「この頃一番何に関心がおありですか。」
賀屋興宣が答える。「ああ、それはやっぱり死ぬということですな。」
「人間が死ぬというのはどういうことですかね。」
とたたみかけるように問う石原さんに、賀屋興宣は答える。「つまりませんな、死ぬということは」
そして続ける。
「いろいろ考えてみましたが、分かってきましたな。人間は死にますとね、暗い長いトンネルみたいな道を一人でずうっと歩いていくんですよ。
「そうやって一人で歩いてゆくと、やがては悲しんでくれていた家族も私のことなんぞ忘れちまってね。さらにその先、この自分も自分のことを忘れてしまうんですよ。つまり何もかも全くなくなってしまうんです。だからつくづくつまらんですな、死ぬということは。」
そう言ってのけた賀屋興宣は、最後に「ですから私は死にたくないですな」と「低く乾いた声で笑ってみせた。」石原さんはそう書いている。(195頁)
最後に石原さんは、「この段に及んで、彼が秘めていたこれほどの強烈なニヒリズムに行き会うとは。」と結んでいる。(196頁)
ところがこれで終わりではない。
さきほど紹介した『死者との対話』と題された本に収められている『死者との対話』という小説は、2019年文学界7月号に石原さんが書いたものだ。
そのなかで石原さん自身とおぼしき「六十代半ばの白髪で端整な顔立ち」の「わりと有名な作曲家」の男が、
『「もう僕には大切な用事なんぞはありはしないんだよ。あるのは死ぬことだけさ。しかしこれは難しいな」と吐き出すように』言って、
「いろいろ考えてはいるんだが分かる筈はないよなあ。死ぬというのは最後の未知だものね、しかし、僕にはわかってきたよ、死ぬのは全くの一人旅だな」
そのときの石原さんは86歳、死の3年前である。その前、2013年、80歳のときには脳梗塞を起こしていた。
その石原さんが、自ら悟った自らの死について語る中身が、なんと、賀屋興宣が『私の好きな日本人』で言ったこととして石原さんが記していることと完全に同一なのだ。
「死ぬとね一人で暗い道をとぼとぼあるいていくんだな。多分長い道だろうな。そしてその間に僕を悼んだり懐かしがっていた連中も皆僕を忘れてしまい噂もしなくなる。肉親にしたってそうだものな。
そしてその内僕も僕のことを忘れてしまうんだよ」
と言い捨てて、
「だからつまらんことだよ死ぬというのは」と結ぶ。
なんと、賀屋興宣が「低い乾いた声で笑ってみせた」ときと同じことになってしまっている。
それほどに、賀屋興宣という人は石原さんに決定的な意味を持った人だったのだろう。
すると、石原さん自身も「強烈なニヒリズム」の持ち主だったということか。
それは、織田信長の唄った「死のうは一定、しのび草にはなにをしよぞ。一定かたりをこすのよ」につながる。「いまいましいほどの焦慮」という石原さんの言葉が続く。(167頁)
石原さんは、死についてそのように考えていたのだ。
それにしても、である。
いまから振り返ってみると、作家が二人も「ミスター・ダンディ」に入っていたとは。それも平凡パンチである。今の若い人は知るまいが、若い男性向けの、軽い週刊誌である。時代というほかない。1967年とは、団塊の世代が20歳になろうとしていた、高度成長が8年目にさしかかっていた、上り一本調子の日本だったころのことなのである。
冒頭に戻る。
石原さんは、いったいなぜあれほどの人気者だったのだろうか?
政治家として、どれほどの時間と精力を注ぎこんだのかは私にはうかがい知ることもできない。しかし、石原慎太郎と賀屋興宣と、歴史は政治家としてどちらが重要だったと判定するだろうか。
賀屋興宣だろうと思う。
では、石原さんは、いったいなにだったのだろう?
「『職業は石原慎太郎』
本人がよくそう言っていたようにどんなカテゴリーにも収まらない人でした。」と四男の石原延啓氏は書いている。(月刊文藝春秋 2022年4月号 105頁)
では、死んでしまった石原さんは、人気者であり続けるのだろうか?
しばらくは。しかし、50年、100年の後、歴史家は石原慎太郎を青年として『太陽の季節』を書いた作家以外の、どんな物差しで測ることができるのだろうか?
私が個人的に知っている石原さんの温かさ、優しさ、繊細さ、懐かしさは、歴史家の目にとまるのだろうか。
森鷗外は、文学者には理解を越えた軍医としての彼の人生の部分は切り捨てられてしまっている。石原慎太郎を全体として理解することは、歴史家にとって「テーベス百門の大都」以上に難しい課題になることだろう。
トップ写真)東京都知事時代の石原慎太郎氏(2008年11月27日 東京・新宿区)
出典)Photo by Junko Kimura/Getty Images