平成11年の年賀状②「日の要求と青い鳥」
【まとめ】
・「日の要求」を果たしつつ、「青い鳥」を探しているのは鷗外にならってのこと。
・鷗外には、ドイツから来た女性のことを聞いてみたい。
・たぶん、「それからの私の半身は生ける屍、抜け殻だった」と言う答えがかえってくるのではないか。
年頭にあたり皆々様のご健勝をお祈り申し上げます。
昨年のご報告を一、二、申し上げます。
春。琵琶湖の西岸へ行き、米原から昔の東海道線に乗りました。窓の外を眺めていると、風の向くまま旅に出ているような、束の間の寅さん気分です。
夏。学生の法律相談に少し付き合って、琵琶湖の南端に行きました。琵琶湖大橋を車で往復しつつ、春の大津の高楼上で食べた湯葉のことを思い出していました。あれほど美味しい湯葉は初めてだったのです。
秋。四年生の終わりまでいた東京の小学校の同窓会がありました。何年か前に乗ったタクシーの運転手さんがたまたま同級生で、転校生の私にまでわざわざ連絡してくれたのです。おかげで三九年振りにまりちゃんと滋子ちゃんに挟まれて間に立っていました。
冬。深夜、仕事の合間をぬって事務所で年賀状を書いています。
通年。この一年も慌ただしく過ぎてゆきました。「日の要求」を果たしつつ、その傍ら相変わらず「青い鳥」を夢見てもいます。今年は五〇歳になります。
何卆本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。
「日の要求」を果たしつつ、「青い鳥」を探しているのは、鷗外にならってのことである。『妄想』に出てくる。もう何回読んだことか。1911年の作だから鷗外49歳の作である。陸軍省医務局長にして軍医総監。軍医のトップの地位にあったときに以下のように書いているのである。
「日の要求に応じて能事るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈のところに自分がいるようである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることができないのである。道に迷っているのである。夢を見ているのである。夢を見ていて、青い鳥を夢のなかに尋ねているのである。」
これが49歳の軍医総監の心のなかなのである。
「なぜだと問うたところで、それに答えることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。」
私は49歳のときの年賀状に、49歳の鷗外の言葉の断片を引用したのである。
鷗外は1907年に就いた陸軍省医務局長・軍医総監の地位を1916年に退く。54歳である。それから6年を生きた。本人は自分が結核であることをわかっていたから、寿命についても覚悟はあったのだろう。それでも役人としての生活と文筆の二重の生活を変えない。最後には『元号考』という、ほとんど読者の想定できない、しかし彼なりに国のために大切と考えた書き物に残り少ない人生を捧げる。このためになら命が縮んでもかまわない。そうでない生活をして長生きしようとは思わないとまで言い切っている。こめかみにできた血管のふくらみを指して、これが輪になったら終わりだと呟いてもいる。
鷗外は死んで著作が残った。その人生を探求する者は後を絶たない。殊にドイツから訪ねてきたというエリスのモデルについての探索が盛んである。
とうに鷗外の死んだ年齢を超えた私にも「青い鳥」は見つからない。尋ね続けている。しかし羽音すらも聞こえない。たぶんこのまま終わるのだろうと思っている。
「自分は此儘で人生の下り坂を下っていく。そしてその下り果てた所が死だということを知って居る。併しその死はこわくはない。人の説に、老年になるに従って増長するという『死の恐怖』が、自分には無い。」
『妄想』の続きである。
私が初めて『妄想』を読んだのは1970年の6月12日である。その年の4月4日にパルコにあった三省堂書店で450円で買った「鷗外全集 2巻」に出ているのを読んだのである。私が大学に入った年のことである。
いま私は鷗外の『澀江抽齋』の朗読を聴き、本に戻ってはまた聴くことを繰り返している。その前には鷗外の別の著作であり、漱石でもあり、最近では坂口安吾でもあった。殊に芥川龍之介の『或阿呆の一生』は何度もなんども聴いた。35歳で自殺した青年作家の遺言とも呼ぶべき著作が心を打つのである。
鷗外にはという「休まずに努力した」という意味の言葉がまことにふさわしい。ところがなんと死に際しては「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」と叫んだと伝えられる。(門賀美央子『文豪の死に様』63頁 誠文堂新光社 2020年刊)
それは、努力に終始した自らの人生への呪詛であったのだという解説である。
死に際して、鷗外は穏健なニヒリストであった自分について、最後の一瞬に後悔したということになるのだろうか。「かのように」を信条とした鷗外にふさわしくもあり、また気の毒でもある。どうして穏やかに「とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合わす。そして死のなかに平和を見出す」ことができなかったのだろうか。当の鷗外自身が「死への憧憬」ゆえに35歳で自殺したというマインデンレルについて述べた『妄想』のなかの一節である。芥川も、鷗外のこの文章から知識を得て『或阿呆の一生』のなかで触れている。
鷗外の死に対しての態度ということになると、遺言に触れたくなる。
「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス」と、死の3日前に友人の賀古鶴所に口述したという遺言である。
その後には、
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス。森林太郎トシテ死セントス。墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス。・・・宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ。唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノモ許サス。」(句点は筆者が補したもの)
この部分を再読していて、私は石原慎太郎さんのお別れの会を思い出していた。確かに天皇陛下からの祭粢料の袋が置かれていた。
それだけではない。私は出版予定の『我が師 石原慎太郎』のなかに、「そのすぐ右に、額縁に入った勲章についての賞状額がある。明仁と、くっきりと署名がされている。旭日大綬章である。平成27年とあった。安倍晋三首相の署名もある。さらに向こうには、その勲章そのものが鎮座している様子だった。しかし、そこまで歩いて行って確認するわけにはいかない。祭粢料に戻って左を見ると、「従三位」とあって、岸田総理が署名している。」と書いている。
人は誰でも死ぬ。例外はない。石原慎太郎さんは89歳だった。石原さんが唯一私淑したという賀屋興宣は88歳だった。二人とも、死ねば一人切りで暗いトンネルをとぼとぼと歩き続け、そのうちに世間はもちろん家族にも忘れられてしまう。それどころか、自分でも自分のことを忘れてしまうのだと、独特の死後観を述べている。
漱石は49歳である。谷崎潤一郎79歳、永井荷風79歳、そして伊藤整64歳。
こうして並べてみると、まず、誰も自らの寿命について知らないままに生き、死んだのだという感慨がある。
江藤淳は67歳で死んだ。自殺したのである。芥川龍之介も自殺している。35歳であった。
私は25歳で死んでしまった青年を知っている。彼は生きようとしていたのに、くも膜下出血で寝ている間に死んでしまったのである。死んだときに自分が死ぬとわかっていたのかどうか。ガーンとバットで殴られたような感じがすると、生き延びた人は言うらしい。医者がそう解説している。彼について、私は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という漱石の俳句を思う。秘かな思い人でもあった大塚なお子が35歳で死んだときの句である。35歳も人生なら25歳も人生である。私の父親は95歳だった。母親は87歳。寿命は人が決めるものではない、天が決めるものだというのが私の考えである。しかし、天は私の寿命について教えてくれない。
安倍晋三元総理は、死ぬときに自分が死ぬとわかっていたのだろうか。
シーザーは突然の死が最善の死だと言っていたという。シーザーの死も安倍晋三元総理の死も、また井伊直弼の死も、どれも突然の死である。シーザーのいうところの最善の死である。
自殺した人間は違う。
寿命を自ら決めて実行した男が53年前にいた。三島由紀夫である。彼については石原さんに話したことがある。『我が師 石原慎太郎』に書いている。
自分の死について考えることが多くなった。73歳であれば、もうこの世にいない知り合いも多いのである。
まず、どういう原因で死ぬのかと考える。
私は健康診断を毎年欠かさず受け、かつ毎月血液を採取して検査してもらっている。その際には血圧を測る。血圧はその他にも週一回の鍼の前後に測る。週二回の運動の前後にも測る。医師の処方してくれる薬を多種飲んでもいるのである。
鷗外は、決して医者の診断を許さなかったという。結核とわかっていたから家族のために隠したかったのである。
鷗外には二つのことを聞いてみたいものだと昔から思っている。
一つは、いうまでもない、ドイツから来た女性のことである。私が鷗外にたずねてみたいのは、「あの女性、独逸日記に出てくる「カニ屋」と日本人留学生が呼んでいたクレッブス珈琲店にいた「ツルゲエネフの説部を識る」女性のことですよね。加治という日本人とごいっしょだったと書いていますが、でもその女性は「売笑婦」だったとも書いてあります。だから帰国後『舞姫』を書いて、森林太郎のドイツ正史をしたためておく必要があったのではないですか?」という質問である。
もし怒らないで正直にはなしてくれれば、たぶんそうだと、その女性を心から愛したのだと、150年経った今となっても涙を流さずにはいないだろうと私は期待しているのだ。
「牛島さんとやら、ありがとう。そのとおりだよ。『クロステル巷の古寺』の『閉ざしたる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつつ泣く一人の乙女』というのは、本当はそのカニ屋でであった女性のことだったのだよ。寺院の傍らで泣いていた16,7歳の乙女にしたのは、あなたの見通したとおりさ。私がベルリンで娼婦に本気になってしまったことは、留学生取り締まりの福島大尉だけじゃない、軍医の大ボスの石黒忠悳にも知られていたことだからね。だから、百年後を相手に私は書いた。ね、牛島さん、文章の力というものはそういうものじゃないかね。」
「そうですか、やっぱりね。でも、森さん、あなたはそのドイツから日本にやってきた女性を捨てたかったのではない。母上が決めていた赤松男爵のお嬢さんとの縁談を進めないと、母上、おっかさんが『自殺する』と真顔であなたに告げたから、ひとまず自分も後からドイツへ追いかけていくからと言って、その女性を納得づくでドイツに帰し、そして8か月後に山県有朋に随行してドイツへ行った賀古さんに頼んで、もう森はドイツに来ないと告げてもらった。」
「そうだ。そのとおりだ。だから、それからの私の半身は生ける屍、抜け殻だった。」
もう一つは、二番目の奥さんのしげさんのこと。「『安井夫人』という安井息軒という大儒学者の妻について、「若くて美しいと思われた人も、暫く交際をしていて、智慧の足らぬのが露見して見ると、其美貌はいつか忘れられてしまう。又三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、昔美しかった人とは思われぬようになる。」と書いていますよね。これって、森さん自ら『美術品のような妻を迎えた』と表現した二番目の奥方、しげさんの批判になってますよね。書かずにおれなかったから書いたのでしょうが、よく書きましたね。あなたはいつもすべての他人を馬鹿だと思っていたそうですからできたのでしょうか。すると、あなたにとって女性とはどんな存在なのですか。」
私は、鷗外の答えを持っていない。たぶん、上記の「半身は抜け殻」という言葉が戻ってくるのだろうかと思っている。人はそのようにも生きることができるのだろう。それは私たちに勇気を与えるのだろうか、そうではないのだろうか。
トップ写真:イメージ 出典:ooyoo/GettyImages
あわせて読みたい
この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html