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「石原さんとの私的思い出8」続:身捨つるほどの祖国はありや24

LAUSANNE, SWITZERLAND - JUNE 17: Tokyo 2016 Olympic bid President and Governor of Tokyo Shintaro Ishihara speaks to the press after presenting their bid to the IOC at the Olympic Museum on June 17, 2009 in Lausanne, Switzerland. (Photo by Ian Walton/Getty Images)

牛島信(弁護士・小説家・元検事)

 

【まとめ】

・銀座の『菊川』という店で、石原慎太郎氏に誘われ、新潮社の名編集者として名高かった坂本忠雄さんと会食した。

・石原さんは、「牛島さん、大いに期待しているんだ、がんばってくれよ」と、語気を強めて私を督励してくれた。 

・石原さんという人は、決して自分を相手に押しつける人ではない。他人にものをたずねるときには、謙虚そのもののような態度の方だった。

 

石原さんとは、何度も食事をご一緒したことがある。シティ・クラブ・オブ・トーキョーではランチだったが、夕食のことがほとんどだった。

東麻布にある富麗華での夕食が最初にごいっしょに食事したのだったか。見城さんが二人を招いてくださったのだった。あれが石原さんに初めてお会いしたのだったか。それなら、以前に書いている。ナタナエルのナをニュと手書きで訂正してくださったのだった。 

それから10年近くのちのこと、銀座の『菊川』という店にお誘いいただいたときには、新潮社の名編集者として名高かった坂本忠雄さんと3人の席だった。石原さんが坂本さんを私に紹介したいということでお誘いくださったのだったか。それとも、坂本さんがおみえになるとは予め知らずにいたことだったのか。

お二人は、2019年に『昔は面白かったな 文壇回想録』という本を出しておられる。新潮新書だった。 

いま調べてみると、坂本さんは1935年のお生まれの方のようだが、そのときには1932年と1935年の3年間の違いについては、気にも留めていなかったので、年齢のことはなにもお話していない。

私が、その3年間の違いの重要性に気づいたのは、最近『日本の生き残る道』を幻冬舎から出していただく際に、「まえがき」を綴り、そのおりに、平川祐弘先生と石原さんが1歳違いでどちらも日本が戦争に負ける以前の日本を13歳以前に知っている方々なのだと意識してからだ。

13歳が自己確立について重要な年齢であることは、心理学の本で読んだことがあった。 

その「まえがき」のなかで、私は13歳の石原さんについて

「既に、その年齢で、石原さんのアイデンティティの一部としての、誇り高い祖国としての日本が確立していたのである。」と書いた。

その後に、平川祐弘先生、石原さん、そして大江健三郎氏、寺山修司についての感想が加わる。 

銀座にあったその『菊川』という店で夕食をご一緒したのは、2007年10月4日のことだった。木曜日だった。

その月の2日の13時54分に、ファックスで店の所在場所のご案内をいただいた。 

中央区銀座6-4-12と住所に電話番号まで入ったファックスだったが、どういうわけか、カフェ25とかリムとかレストラン高松といった名が手書きでファックスで送られてきた簡単な地図に書き加えられていた。肝心の菊川は活字だったから、あれは店で作った道順の案内ででもあったのだろうか。

そうかもしれないと私が思うのは、とにかく、私の運転手さんが、ここなんですが、と自信なげになってしまうような、狭い路地の奥にある、古いたたずまいの、凛とした素敵な構えの和食の店だった。

3人のうちで私が最後に到着したので、お待たせしたことをお詫びしたような気がする。あのころも、今と同じように、私は弁護士として忙しかったのだろう。確か、巨大な金融機関の不祥事で時間がかかってしまって、6時半のお約束の時刻に間に合わなかったのだった。しかし、お二人ともそんなことは少しも気にもされず、石原さんが「まあ座りたまえ」と言ってくださった。

畳敷きで、さいきん流行りの掘り炬燵式ではなく、テーブルが置かれてもいなかった。それぞれの席の前に小さな膳が置かれていた。

当然ながら石原さんは昔からの馴染みのようで、中年の女将とのやりとりをよこから聞きながら、私はふっと『太陽の季節』の一節を思い出していた。 

『太陽の季節』の冒頭に

「竜哉が英子に強く魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持ちと同じようなものがあった。」とある。(『太陽の季節』新潮文庫 8頁)

拳闘、という言葉も懐かしい。

その主人公の津川竜哉が拳闘の合宿に新潟へ行き、しばらくして東京へ戻ってきた日のこと、恋人の英子は上野駅まで竜哉を迎えに行く。そう、あのころからつい最近まで、新潟から東京への汽車は、東京駅ではなく上野駅に着いたのだった。

ゆっくり話がしたいという英子に竜哉は、「いや、何処かで飯を食おう」と答える。

「父がよく使う料亭を彼は教えた。久しぶりの東京の雑踏が懐かしくさえあった。」

「通された部屋で、脇息にもたれながら竜哉は訊ねた。『なにか変わったことあった。兄貴どうしている』」とたずねる場面が続くのだ。(同書70頁) 

その、父がよく使うという料亭は、ひょっとしたらこんなところだったのかもしれないな、と私は「菊川」なる店に石原さんにご招待いただいて、理由もなく考えついたのだ。きっと脇息が脇に置かれていたのだろう。

主人公の竜哉は高校生である。あるいは石原裕次郎の経験を書いたのかもしれない。裕次郎の友人かもしれない。

中学生のときに『太陽の季節』を読んで、妙に印象に残った場面だった。 

石原さんに「まあ座り給え」と優しく言っていただいた私が、遅参を畳の上に両手をついてお詫びし、石原さんが坂本さんを紹介してくださって、食事が始まった。もちろん、私は坂本さんが有名な編集者だと知っていたが、お会いするのは初めてのことだった。

その後、坂本さんは私の執筆の進み具合を心配して手紙をくださったりした。

坂本さんも亡くなられてしまった。それも、石原さんの亡くなられる直前のことだった。私はまことに不義理を重ねたことになる。

「いいものを書いたね」

そう石原さんに微笑んでいただけなかった私の人生とは、いったい、なにだったのだろうか。いまにして思う。 

当時は私もアルコールをたしなんでいたが、75歳の石原さんは17歳年下の私など及びもつかないペースで、白ワインのボトルを脇に置いて次々と口に運んでいた。

ところが、しばらくすると石原さんは三分の一ほど減ったボトルを左手で持ち上げ、両手に持つと顔を近づけてラベルを読み、

「なんだ、女将、こんな程度のしかないのか。もっといいの持って来いよ。グランクリュがあるだろう」

と、奥に呼びかけた。せっかく飲む酒なのだ、少しでも美味しいものが味わいたい、という調子が率直に現れていた。私は、ああ、石原さんらしいなあ、まるで青年のままの石原さんがワインを愉しみたいんだ、と駄々をこねているような雰囲気がそこにはあった。

そういえば、石原さんはラべルを読むのに老眼鏡をかける必要がないようだった。

いつからだったか、石原さんがメガネをかけてテレビなどに出てきたときに、私は不思議な感じがしたのをおぼえている。え、石原慎太郎がメガネ、と取り合わせが奇妙な思いがしたのだ。ずいぶん以前のことなのだろう。 

あわてて女将がグランクリュを持ってきた。たぶん、ブルゴーニュの白だったのだろう。私は石原さんの三分の一も飲んでいなかったし、坂本さんはもっと少なかった。

石原さんが、運ばれてきたグランクリュの新しいボトルをいとおしそうに眺め、女将に開栓させて新しいグラスに注がせ、それを目の高さに持ち上げてちらっと眺めてからグラスにゆっくりと口をつけ、しばらく口のなかにふくんでからすこしずつ喉を通過させている姿が私の目の前にあった。格好が良かった。

石原さんはネクタイを緩めていた。そしてすぐに外した。もともと、首を絞めるネクタイが嫌いな方なのだ。

ワインのボトルを掴んだ石原さんは、もうネクタイをしていなかった。

私は、食事のあいだじゅう、ネクタイをしたままでいた。 

目の前にいるその人は、都知事の職にある人だった。

しかし、そんな雰囲気は少しもない。石原さんにとっては、そんなことよりも大事なことをこの場でするのだという思いがあったのだろう。 

「どうだい、書いているかい?」

とたずねられた。

私の答がはかばかしくなかったせいだろう、石原さんは、私の席の後ろに回って私の両肩をそれぞれの手で掴み、

「牛島信よ、期待してるぞ」

と、力を込めてすこし揺さぶるようにしながら、声に出してくれた。 

食事の内容はおぼえていない。

その間、石原さんは、小説を書くときにはちょっとした人の癖とかそんなことを入れると場面が生きるんだよといったこと、そして、なんかいも、「牛島さん、大いに期待しているんだ、がんばってくれよ」と、横の坂本さんに目をやりながら、語気を強めて私を督励してくれた。 

石原さんの小説、当時書いていらした『火の島』の話は、その時は出なかった気がする。 

その菊川での会食の少し前、7月4日の午後7時過ぎに、石原さんの描いている小説について電話でお話ししていた。

ゴルフ場をいくつも買い集めていた男が、自分に現金が必要になったので一つ売る、という設定での話だった。個人の金で、それを外国の銀行に入れて、金を日本で引き出すんだよ、と言われた。

ところが、買い集めていたたくさんのゴルフ場が狙われてね、と話が弾んでいく。どうすれば法的に問題がないかな、という質問が重なった。 

それが、途中から石原さんの話は私のことになり、君の小説はどうなっているのかとたずねられた。

「あなたねえ、検事の供述調書のような文体もいいんじゃないか」とまで示唆してくださった。私も、なるほど、供述調書というのは独特の文体だからおもしろいものになるかもしれない、という思いがした。

「私は、腹が立っておもわず手元の包丁で相手の腹を刺しました。柳葉包丁ですから、意外なほど深く刺さり、肉の奥まで入っていく手ごたえを感じました」

などといった文章、つまり、「私は」という主語で綴られた文章だが、作者は検事なのである。 

そのうち話は、石原さんの小説の話に戻って、親会社と子会社の問題、土地の交換の際の交換差益の税務上の話などを私が解説して、石原さんは神妙にいちいちうなづきながら聞いてくれた。 

石原さんという人は、決して自分を相手に押しつける人ではない。それどころか、自分の知らないことについて他人にものをたずねるときには、それこそ謙虚そのもののような態度の方だった。だから、私は都知事になった石原さんが都の財政改革のために会計制度の抜本的な変更をしようと、当時日本公認会計士協会の会長だった中地宏氏に相談した、と書かれているのを読むと、その時、その場での石原さんの様子が容易に、生き生きと想像できるのだ。(『東京革命 わが都政の回顧録』幻冬舎2015年 134頁) 

ふーん、どうしたら主人公の男がゴルフ場を自分のものにできるかなあ、という質問を受けて、私が、それは間接にしたらいい、つまり間に会社を入れるのが良いというアイデアをだしたりもした。石原さんの物語には、女性、それも昔からこう焦がれていた女性が出てくる設定だったのだ。現金は、その女性にかかわる。

 

最後に「火の島」ができあがったとき、私は、ああ、石原さんは会社の仕組みではなく、そうした舞台のうえで絡み合う男と女の物語を心のなかにしっかりとつかんでいて、そこにしか興味はなく、私に次々と質問をなげかけた源も、その男の主人公と女性との関係にあるんだなと思い当たった。

石原さんに、いろいろご協力して知恵を出すのはいいのですが、私が手伝ったということはどこにも出ませんよね、と確認したことがある。初め石原さんは、私が私が手伝った証しをどこかに入れて欲しいと言いだしたのかと誤解されたようで、それはできないなあ、と困ったようにいわれた。私が、いや、そうではなく、私がお話ししているのと似た事件を実際にあつかっているので、それが少しでも私が関与したものとして外へでることは弁護士なので避けたいだけなのですと答えた。石原さんは安心してくれた。 

最後には、ゲラを見せてもらった方が早いですよ、とまで申し上げたこともある。

とても失礼なことだったのだろう。

私が、いちいちお話しているよりも、いっそゲラを見せていただいた方が早いですよ、と申し上げたときには、少し躊躇された気配が電話の向こうにあった。

私がそう言わずにおれなかったのは、石原さんが、会社制度や親子会社などについて、なかなか理解してくださらなかったからだ。税法もからんでいたのだから、石原さんなりに苦労されていたのだろう。

その進言にしたがって、石原さんから送られてきたゲラが、今も私の手元にある。本になった『火の島』と比べたことはないが、比較してみれば、私が石原さんの傑作に多少とも貢献したことがわかるかもしれない。

そういえば、『火の島』の連載が『文学界』に載っていたときには、愉しみにして毎号を買い求めていたものだった。

できあがった本は、送ってくださった。今も私の書架にある。

『火の島』は、もちろん読んでいる。あるいは、私の進言は結局取り入れていただけるところにならず、別に電話でお話しして、こうしましょう、ということになったような気もしている。

たぶんそうだったのかもしれない。

私が、石原さんという人は本質的に詩人なんだな、と確信したのが、この小説を巡っての一連のやりとりの時だったような記憶だからだ。

(つづく)

トップ写真:オリンピックの入札後、記者団の質問に答える石原慎太郎都知事(当時) 2009年6月17日 スイス・ローザンヌ

出典:Photo by Ian Walton/Getty Images