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.社会  投稿日:2023/4/12

平成10年の年賀状②「最初の小説を出すまでの日々」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・小説小説『株主総会』を出したのは、もう26年前のこと。

バブル崩壊、特捜部の操作が本の追い風となった。

・小説の形にまとめたいという欲求が発生したのは、年齢的に若くなくなったことと関係しているのだろう。

年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。

昨年のご報告を一、二、申し上げます。春。子供二人の受験に追われました。普段はさぼりがちな父親業のツケをダブル・ヘッダーで一挙に払いました。

夏、その一。髪を、昔「慎太郎刈り」といった、あの形にしました。お蔭で最近は良く床屋に行きます。

夏、その二。初めて小説を出版しました。

夏、その三。出張先のニューヨークからパリへ、コンコルドに乗って行きました。天井の低くなったところに頭がぶつかった時、ゴツンと音がしました。まわりの人は「あ、音速を超えた音だ!」と思ったかもしれません。二十三年振りの「薫る巴里」です。

秋。広島へ帰り、それから父と一緒に九州へ行きました。生まれて四度目のゴルフもしました。

冬。浪人時代の寮の同窓会がありました。会場への途々「十九年にもなるのか」と感慨に耽っていたのですが、実は二十九年振りでした。私の四回目の「牛の年」は目眩く間に過ぎてしまったようです。

何卒本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。

『株主総会』という題名の小説を出したのは、もう26年前のことになる。

思いだす、その年の正月、平成9年(1997年)の正月、私は家族との団らんの時間を中断し、この小説の執筆にいそしんだのだった。気象庁に勤めていた新田次郎が初めての小説を書くべく、「戦争だ、戦争だ」と声に出して自分を励ましながら書斎のある二階への階段を昇っていたという逸話がある。私はその話を思いながら自らを叱咤激励していた。

わたしなりの小説を書く目的があったのだ。

書き上げたのは3月ころだったろう。

出来上がった原稿を持った私に、別の難題が押し寄せた。出版社探しである。心あたりはあったつもりだあったが、法律書を出しているところでは食指を動かしてくれない。探しにさがしたあげく、或る友人の弁護士に相談したところ、幻冬舎の見城徹社長を紹介してくれることになった。

勇躍たずねていった幻冬舎は、今とちがって、四谷の雑居ビルのなかにある雑然としたオフィスだった。そこで私は、初めて見城社長に会った。見城さんは、すでに私の原稿を読んでいてくれていた芝田暁編集長を呼び、その場で引き合わしてくれた。

「どうなんだ、おい、芝田。お前が出せるっていうなら出すぞ。ウチじゃ無理、ダメだっていうんならそれでいい。ほかの会社を紹介するから。」

身を乗り出すようにして芝田さんに問いかける見城さんの態度は、小気味よいほど明確だった。具体的な他の出版社の名前もその口から出た。

「多少の修正をすれば、出せます!」

芝田さんもはっきりとしていた。もちろん、私はその場で「多少の修正」をすることに応じた。

後になって見城さんはそのときの状況を面白おかしく、なんども第三者にこう語った。

「いやあ、凄い弁護士だっていうんだよな。そういう触れ込みだった。

で、本人に会ってみた。すると、

『ボク、この小説を出せなかったら、死んでしまいます』っていう雰囲気が漂っているんだ。まるで少年のような一途さがあったな。良かった。」

47歳の弁護士であった私は、見城さんの目にはそういう風な人間に映ったらしい。もっとも小説を出してもらう人間としては、まさに少年だったのは事実だったのだが。

時の運があった。1997年はバブルの崩壊が本格化し、巨大銀行のトップが総会屋との癒着を理由に次々と逮捕されるという事態が出現した年だったのだ。逮捕の指揮を執っていたのは、私の新人検事時代の指導官だった熊崎特捜部長だった。

出版されたのは6月の定時株主総会シーズンの直前だった。もちろん幻冬舎としてそれを意識してのことだったろう。特捜部の捜査の大々的な発展とそのテレビや新聞での報道が格好の宣伝になっていった。未だSNSは存在していない。

新人作家の第一作目の出版物が何十万部と売れることは、ほとんどないだろう。私は運が良かったというしかない。「慎太郎刈り」にした頭が週刊ポストに写真として出た。私なりに石原さんの髪型にしたかったのだ。

第一勧業銀行のM会長が自死した時にはテレビ局にいた。その経緯は、最近出た『会社が変わる!日本が変わる!!』(徳間書店)の18頁に書いている。田原さんが司会のサンデープロジェクトに出演していて、その場の田原さんにテレビ会社の人からメモが渡されたのだ。

私は小説を書き始めたことでなにかを得たろうか。失ったものはわかる。時間である。それでも書かずにおられなかったのには、なにがあったのか。「戦争だ、戦争だ」という新田次郎の思いに共感しながら思いつめるようにして書いていたのは、なにを求めてだったのか。

「小説の形にまとめたい、という抑えがたい欲求が自らのうちに発生したのは、私が年齢的に若くなくなったことと関係しているのだろうと思う。『人生は移動祝祭日の連続ではありえず、必ず終わりがある。とすれば、夢中になるだけではなく、反芻してみることも、また一興ではないか』」と、私は『株主総会』のあとがきに書いている(文庫本199頁)。

本当にそういうことだったのか。それだけでは、私が石原さんの髪型にしなければならなかった理由の説明にはならない。同じ年に起きた二つのことは偶然であろうはずはない。私はなにかに焦っていたのだ。弁護士としての私は順風満帆だったと言ってよい状況だった。

では、なにに焦っていたのか。

わからない。わからなくなってしまっている。

しかし、今の私にはその焦りはない。静かで穏やかな海面が傾きかけた太陽の光をキラキラと反射してまぶしく輝いている。海と溶け合う太陽。その間26年。10冊の小説を出し11冊のエッセイ集を出した。つい最近には田原総一朗さんとの対談も本になった。

なにが私の身体のなかを通り過ぎたがゆえに、私の心から焦りの気持ちが沈静し、それでも未だ輝いているのか。私の弁護士としての仕事の成果は、その26年の間に勝ち得たものだ。

「春。子供二人の受験に追われました。」と書いているから、その前には執筆を終えていたのだろう。次男を私立高校の受験会場に車で送り、長男の大学受験には日吉が受験会場だったので横浜にホテルをとっていっしょに泊まり込んだ。それだけを聞けばなんとも熱心な教育パパということになる。しかし、事実はまことに「普段はさぼりがちな父親業」であった。

長男を連れて広島に転勤したことを思いだす。

私は検事になって初めの1年が終わる前にもう辞めたいと言い出した。もともと国際関係の弁護士になることと迷いに迷った末の任官だったのだ。辞めたいと言い出した私は何人もの上司に面談しなければならなかった。遥かに地位の上の方は、「君なんかには、こんなことでもなければ会うこともないんだよ」と率直に言ってくださった。最終的には、「どこへでも転勤させてやるからもう少し検事でいろ」と言ってくれた。それで両親のいる広島へと願いを出した。

その結果、私は広島の官舎に移り住むことになり、6か月だった長男が歩行器に乗ったまま自由自在に動き回る広いリビングで引っ越し荷物をつくり、広島へ新幹線で移動した。

狭くて暗い官舎の風呂に長男を入れたとき、長男が見慣れない周囲を見回して大きな声で泣き出したのを覚えている。それまでは広いマンションの明るいバスルームに慣れていたのだ。私は、自分一個の決心がもはや自分ひとりのものではないのだということを思い知らされた。3人の家族の運命が私の決心のせいで一つのものとして変転するのだ。

それでも、広島で無事1歳を迎えた長男は、私が広島地検に通勤すべく5階建ての官舎の2階の窓の下を歩いてゆく姿に手を振ってくれたこともあった。

結局、広島には1年しかいなかったけれども、いろいろなことがあった。仕事でも私生活でも、私は若く、未来に希望しか抱いていなかったのだ。28歳から29歳までの1年間なのだ、当然のことだろう。

初めての仕事が火災現場の検証だった。文字どおり、未だ煙がくすぶっている木造の二階建ての家屋に遺体が複数あり、私は遺体とともに大学病院へ行った。そこで解剖に立ち会ったのだ。私は翌日の新聞で火災で死んだ方の顔に大きなホクロがあったことを知った。

解剖といえば別の機会のもののほうが強い印象として残っている。殺人だった。被害者は未だ若い女性で、法医学教室の男性の教授と助手の女性が二人で、つぎつぎと作業を進めていった。私は、人間の皮下脂肪というものが皮膚に切り込みを入れるとまるでガウンを脱ぐようにはがれてしまうものであること、その皮下脂肪は、皮膚の色と違って真っ黄色であることを見て、知った。芥川龍之介の『偸盗』という小説に、その黄色い皮下脂肪が描かれている。さらに、彼の『或阿呆の一生』には、その小説を書くために知り合いの医者に頼んで解剖を見学する場面についての記述がある。

若い法医学教室の女性が被害者の心臓を切り離し、手に掲げていた。最後に教授は「ホトケさんのものはみな返してあげないといけないからね」と言いながら、内臓をすべて遺体に戻し、丁寧に大きな傷口を縫い合わせるように見事に塞いだ。

私は、自分が解剖に立ち会っていることになんの不快感もなかった。それどころか、犯罪で死ぬことになってしまった被害者への深い同情の念と犯人処罰への強い意欲があった。

もっとも、広島での検事の日々のほとんどは暴力団員と付き合う日々だった。覚醒剤事犯が多く、警察の供述調書を読むたびに犯罪者は貧しい人々なのだということをつくづく実感させられた。

しかし、私は自分について検事を辞めても失うものはなにもないように感じていた。逆に、私の心のなかでは、早く弁護士にならなくてはライバルに置いて行かれてしまう、という焦りが渦巻いていた。30歳になるまでに辞めなければ一生検事をしていることになるという強迫観念があった。

年末、私は勇んで新幹線で上京し、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所の面接を受けた。アーサー・K・毛利先生部屋のドアを開けると、恐ろしく広い部屋の向こうに大きな机があって、そこからゆっくりと立ち上がって私を出迎え、ソファに座るようにすすめてくれた。そこで私がフィッツジェラルドの話をしたこと、一瞬の間をおいて毛利先生が「オー、スコット・フィッツジェラルドね」と言ったことを覚えている。「君は英語の本ではどんなものが好きかね」と尋ねられたのだ。

27歳になって心定まらぬ父親に連れられて広島に連れていかれた長男は1歳半になっていた。辞職の挨拶をすると地検の公安部長だった中年の検事は、「それはいい決断をしたね。検事はね、なんといっても結局転勤々々だからね。子どもが犠牲になる。」と、意外にも、しかしなんとも優しい言葉で祝福してくれた。

私は小学校を三回転校した。いうまでもなく父親の転勤に伴ってのことである。私の子どもはどちらも、一度も小学校を替わっていない。弁護士は強制的に住所を替えられることはない。そして父親は転居の際には子どもの学校を最優先にするものだ。

私はその法律事務所に6年いて独立したが、自宅は転居していない。オフィスが丸の内のAIUビルから青山ツインに移っただけである。

(平成10年の年賀状①はこちら

トップ写真:破綻した山一證券 1997年11月25日

出典:Photo by Yamaguchi Haruyoshi/Sygma via Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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