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「第2の竹平政太郎」をつくれ 「高岡発ニッポン再興」 その6

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・利益より地域社会への貢献を訴えた竹平氏が三協アルミニウム工業を創業した。

池田内閣の所得倍増論に恵まれて、三協はその時代にそって急成長した。

・コロナでリモートワークが進み、東京から地方に移住する人が増え、「第2の竹平政太郎」が誕生する可能性は十分ある

高岡市はもともと鋳物のまちとして知られていました。ところが、その後、アルミニウム業界が台頭してきました。豊富な水と電力、さらには鋳物で培われた技術が背景です。戦後の高度成長期にぐんぐん売り上げを伸ばし、高岡市の基幹産業となりました。

業界を支えていたのは、旧三協アルミニウム工業(現三協立山)の創業者である竹平政太郎です。業績拡大とともに、地元を大いに潤わせました。三協は、アルミサッシを売って全国、いや世界から「外貨」を集めたのです。この結果、高岡市の商店街や繁華街も商売繁盛していたのです。

▲写真 三協立山アルミ本社(撮影筆者)

私は、高岡再興には、竹平政太郎のような存在が不可欠だと思っています

竹平の特徴はあくまで地元に根差したことです。「無私大道 竹平政太郎の奇跡」という本によれば、竹平は尋常小学校卒業後、高岡の金屋町にある銅器の染色工場に丁稚奉公していた。

鋳物の技術を持ちながら、独立して、アルミ鋳造にも進出しました。なべや釜の製造も行なったのです。この会社は戦時期に、高岡市内の他の会社と合併し、アルミ製の日用品メーカー、北陸軽金属が誕生したのです。

私が驚いたのは、竹平が1950年代後半、北陸軽金属の専務だった時のことです。

北陸軽金属の過半数の株を所有する日本軽金属は、竹平に対し絶対服従を求めました。具体的には、日本軽金属の利益を第一だと主張したのです

過半数の株式を持つ企業としては、合理的な主張だったのですが、竹平は、受け入れません。地域社会への貢献を訴えたのです。高岡市のこだわった竹平の真骨頂です。

結局、親会社に逆らった竹平が解任され、1960年5月に退職に追い込まれました。サラリーマン生活に終止符を打たれた形になりますが、ここからが逆転人生です。竹平はこの年、三協アルミニウム工業を創業したのです。その時すでに、51歳でした。今ならまだ若いと言えますが、当時は相当な年齢です。その勇気ある決断に、脱帽です

三協という社名は、地元、得意先、そして従業員、その「3者」の「協力」の下で発展するという意味が込められていた。あえて、地元、高岡市を意識した名前なのです。得意先と従業員だけでなく、地元高岡も協力して発展するというのです。

従業員は5人からスタートしました。資本金は2000万円。竹平は高岡から勝負したのです。中央の巨大資本に対する「地方の乱」です。

販売ルートの開拓が大事なポイントです。建材商社アリタの在田保三はこんな証言をしています。

アリタは当時、不二サッシの代理店でした。竹平が「アルミを郷土産業にしたいという信念でやっとる、それに協力してほしい」と説得。在田は「郷土のため」という言葉に共鳴し、1週間悩んだ末、不二サッシから三協に切り替えたという。

竹平が創業した1960年と言えば、池田内閣が所得倍増論をぶち上げた年です。経済成長が10%程度となり、経済大国への道を歩み始めました。三協はそんな時代の流れにそって急成長しました。設立わずか1年で従業員は4百数人の規模になりました

ビル用、住宅用の総合サッシメーカーとして躍進したのです。竹平は「日本一の製品を作れ」「10年先、20年先を想定して働け」と、部下にハッパをかけ、地元に工場を次々に建設したのです。

1992年には、資本金269億9400万円、従業員6517人、売上高は2774億8300万円の巨大企業になった。

その後、三協は立山アルミニウムと合併していますが、当時の勢いはなくなっています。それとともに、高岡市も元気がなくなっています。

しかし、私は令和の時代、チャンス到来と考えています。高度成長期に匹敵する時代の変化が今なのです。コロナ危機をきっかけに、リモートワークが進んでいます。どこにいても仕事ができる環境になっています。実際、東京から地方に移住する人の数は増えています。政府も企業の地方への移転を推進しています。地方で勝負できる時代になったのです。「第2の竹平政太郎」が誕生する可能性は十分あるのです。高岡市でどんどん起業してもらう環境づくりが大事なのです。新たな起業家、新たな産業を育てることが、次の時代を切り拓きます。

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トップ写真:高岡鋳物の発祥の地、金屋(撮影筆者)