近藤勇の甲冑と山岡鉄舟の器量「高岡発ニッポン再興」その4
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・西田幾多郎や鈴木大拙が訪れた、日本有数の禅寺である国泰寺。
・国泰寺で近藤勇の甲冑が発見された。寄進した人物は、幕臣である山岡鉄舟であった。
・山岡は、廃仏毀釈の影響を受けた国泰寺を目撃した。「甲冑の寄進」は山岡の近藤に対する敬意の表れではないか。
富山県高岡市は、「歴史・文化の都市」と言われています。国宝と指定されている瑞龍寺や平成の大修理を実施した勝興寺に脚光が当たっていますが、実は、知る人ぞ知る日本有数の禅寺があります。国泰寺です。
その格式の高さには驚くばかりです。臨済宗には15の総本山がありますが、国泰寺派もその一つ。妙心寺や天龍寺などと同格の寺なのです。
様々な著名人が参禅しました。日本の哲学を創始した西田幾多郎もその一人です。そして、西田は、西洋哲学一辺倒の中、日本にも哲学があると主張。日本の思想の根幹に「禅」を見出したのです。
世界で広まった禅ブームの火付け役、鈴木大拙もそうです。金沢に住んでいたのですが、ある時、国泰寺の雪門禅師を訪ねました。そのときの記録が残っています。
「国泰寺に行くのに金沢から1日かかったかな、以上だったかな、折角行ったものの、そういう具合に馬鹿に叱られて追い返された。文字の意味がどうのこうのと聞くより、坐禅をしておれというわけだ。」(「私の履歴書」)
雪門禅師が鈴木に諭したのはこういうことです。
「禅は体験することでしかない、文字や理屈ではない」
その後鈴木は27歳で渡米。アメリカで禅ブームを起こしました。
西田幾多郎、鈴木大拙。2人の思想家の根幹を作った禅道場が国泰寺なのです。
その国泰寺に改めて光が当たっています。新選組の局長、近藤勇(1834-68年)が着用したとみられる甲冑が発見されたからです。
よろいとかぶとを寄進したとされているのは、幕臣だった山岡鉄舟(1836-88年)。幕末に活躍した2人はどのような接点があったでしょうか。
国泰寺では、このよろいとかぶとの存在は以前から知られていました。ただ、それが誰のものなのか、分かりません。木の箱に入っていましたが、封印された箱でした。
事態が急展開したのは、2020年です。宝物台帳が見つかり、こんな記述がありました。
「新選組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ鉄舟居士寄進ノモノ一具」
鉄舟居士というのは、山岡鉄舟です。
▲写真 山岡鉄舟が近藤勇のよろいなどを寄進したことを示す宝物台帳 「新選組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ鉄舟居士寄進ノモノ一具」と記されている。:国泰寺蔵(撮影筆者)
山岡鉄舟が近藤勇のよろいとかぶとを寄進したと書いてありました。
そこで、国泰寺の関係者はこの年の10月、射水市新湊博物館の協力を得て、箱を開けてみました。そこで初めて、よろいとかぶとを目にし、その色鮮やかな様子に驚いたといいます。
寺が所蔵しているよろいとかぶとは、一式だけです。また、専門家の鑑定は、室町時代の部品をつかって、江戸時代に作られたとみています。
こうした点を踏まえ、このよろいとかぶとは、近藤勇のものだと判断されました。
▲写真 近藤勇のものとされるよろい:国泰寺蔵(撮影筆者)
▲写真 近藤勇のものとされるかぶと:国泰寺蔵(撮影筆者)
国泰寺によれば、近藤勇はよろいやかぶとをつけたがりません。生涯で1度だけ身に着けた可能性があるといいます。
山岡は実に、近藤勇とは深い縁がある。2人とも幕末を代表する剣豪だが、その接点は、新選組の前身、浪士組という組織です。浪士組は、上洛(じょうらく)する、第14代将軍・徳川家茂を警護するため、つくられたものです。幕臣の山岡は、その取締役でした。
浪士組は、腕に覚えのある人ならだれでも参加でき、その中の一人が近藤です。山岡は近藤らと一緒に上洛しました。
その後、浪士組は解散し、江戸にもどりましたが、近藤らは京都に残りました。
そこで、新選組と名前を変え、幕末の歴史を彩ったのです。
しかし、2人の人生は大きく変わりました。薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った1868年1月末の鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が大勝したことが引き金です。新選組は散り散りになり、近藤は新政府軍に捕まり、斬首されました。35歳です。
一方、山岡は維新後、西郷隆盛のたっての依頼で、明治天皇に侍従として仕えました。10年間の期限を設定し、若い明治天皇の教育係となったのです。大酒を飲む明治天皇をいさめるエピソードもあります。わずか14歳で即位した明治天皇が尊敬される大帝と言われるようになったのは、山岡の教育があったからという指摘もあるのです。
山岡は明治政府を辞めた後、東京の谷中に全生庵を創建しました。明治維新や倒幕で、殉じた人を弔うためです。
その全生庵は、中曽根康弘や安倍晋三らが座禅に通っていました。
富山県射水市新湊博物館の松山充宏・主査学芸員(日本中世史)は「晩年の山岡が戊辰戦争の記憶が薄らいだことを見計らって、近藤の活躍を記念するものとして、徳川家とゆかりがある国泰寺に奉納したのではないか」と指摘しました。
近藤勇は当時逆賊とされ、山岡は、表立って供養できず、地方の寺に寄進した可能性もあるというのです。
歴史的に証明できませんが、「甲冑の寄進」は山岡の近藤に対する敬意の表れではないででしょうか。「幕府に最後まで忠誠心を抱く。勝ち馬に乗らない」。そんな近藤の美学に共鳴していた面もあるのではないでしょうか。
それでは、山岡はなぜ、国泰寺と関係を持つようになったのでしょうか。きっかけは、明治天皇の北陸への巡幸です。山岡は随行し、荒れ果てた国泰寺を目の当たりにしました。全国に広がった廃仏毀釈の影響です。
「由緒ある寺をこのまま放置できない」。山岡は、国泰寺を再興するため、自ら、1万枚以上の書を揮毫し、広く資金を求めた。書の達人でもあったのです。
山岡は、江戸城無血開城の陰の立役者でもあります。
江戸に攻め入ろうとした西郷隆盛を静岡で説得。西郷は江戸を火の海にすることをやめた。勝海舟と江戸で会談する前に、山岡との会談で、腹を決めました。
山岡は西郷をしてこう言わしめた。「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、そのように始末の負えぬ人でなければ、天下の大事は語れないものです」。
「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」。つまり、山岡は無私無欲の人だったのです。私はこの山岡の生き方に強烈な憧れを抱いています。
私はこの高岡で市議会議員として活動しています。私利私欲をなくし、無私の精神で、市民のための政治を実践します。
トップ写真:国泰寺 出典:高岡市観光協会「たかおか道しるべ」
2022年5月2日15時20分 写真追加
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。