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猿払村の奇跡と人気ラーメン店 「高岡発ニッポン再興」その14

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・高岡では市外出身者は「旅の人」とどちらかと言えば否定的なニュアンスで呼ばれる。

・猿払村は貧乏村から「決断」で自治体所得ランキング3位に。村出身のラーメン店主も「決断」で人気店に。

・高岡市の閉塞感を打ち破るには、“旅の人”が必要従来にない発想に果敢に取り組む人こそが重要。

 

高岡に戻って1年半ほど経ちます。いろんな人と出会いましたが、その中でも強烈な印象の人は、高岡の人気ラーメン店「翔龍」の店主、浅野昭次さん(69)です。浅野さんは先日、「10年ぶりに故郷に戻って墓参りしました」と、笑顔で語ってくれました。

高岡では、市外出身者は「旅の人」と呼ばれます。

「あの人は『旅の人』だから…」

閉鎖的な風土の中で、「旅の人」という言葉は、どちらかと言えば、否定的なニュアンスです。

そうした意味では、浅野さんは「旅の人」です。しかも、高岡から遠く離れた、北海道の猿払村(さるふつむら)出身です。猿払村と言えば、北海道の北端、稚内に隣接する村です。高岡出身の奥さんと出会い、移住。高岡でラーメン店を経営して30年以上経ちます。「富山ブラックラーメン」が看板商品で、1日1000食出すこともある、人気店です。

▲写真 ラーメン店「翔龍」店主、浅野昭次さん(69)筆者提供

浅野さんは先日、故郷、猿払村について語ってくれました。

「子どものころは本当に猿払村は貧乏だったのです。周囲からは『貧乏村』と言われていました。しかし、今は違います。村全体が潤っています」。

猿払村はもともとホタテ水揚げ日本一だったのですが、1960年代には乱獲で、水産資源が枯渇したのです。「貧乏見たけりゃ猿払へ」と揶揄されました。漁業者は現金収入が極端に減りました。

ちょうど、浅野さんが10代ぐらいのときです。漁師を辞める人が続々と出てきたといいます。浅野さんのお父さんも漁業を辞め、旭川に行きました。浅野さんのお兄さんだけは漁業を続けました。

ところが、この状況を打開したのは、猿払村漁業協同組合の組合長の太田金一さんでした。1971年日本初のホタテ稚貝の大規模放流事業を計画したのです。ホタテの稚貝を購入し、海中で育て、5センチほどの小さな貝に成長したところで海に放流。4-5年後、10センチほどに成長したホタテを獲るという方法です。

つまり、ホタテを「獲る」から「育てる」に大きく舵を切ったのです。

この放流事業には多額のお金が必要です。しかも、成果が出るには時間がかかります。リスクがいっぱいです。

太田組合長は必死に、関係者を説得しました。また、漁業組合だけではお金を賄えません。当時の村長、笠井勝雄さんも「猿払村の再生はホタテでやるしかない」と考え、大きな決断を下します。税収の半分近くを稚貝の放流事業に投じたのです。また、村の住民からもお金を出してもらいました。

組合長と村長の決断と実行が村全体を動かしたのです。

その成果は出ています。全国の自治体の所得ランキングで2017年、猿払村は3位。東京都の港区、千代田区に次いでいるのです。また、東京都渋谷区や兵庫県芦屋市を押さえての3位です。今も上位を維持しています。

▲画像 北海道・猿払村のホタテ漁の様子。YouTubeより(筆者提供)

ところで、浅野さんが経営する高岡市の野村のラーメン店「翔龍」ですが、私は初めて行ったとき、驚きました。

グレー色を基調にしたおしゃれな巨大な店舗。夜の11時ごろなのに、多くの人でにぎわっていました。若いカップルがデートでラーメンをすすっているのです。都会的なラーメン店。しかも、名物のブラックラーメンの味も抜群でした。

浅野さんによれば、当初は大きな店舗でつくってリスクが高いとして懸念する声も多かったといいます。それでも、誰もやっていないことをやりたいと、浅野さんは決断しました。どこか猿払村の復活と似通っているような気がします。このラーメンを食べに、県外からも多くの人が来ているといいます。

高岡市の閉塞感を打ち破るには、やはり、“旅の人”が、必要なのです。従来にない発想に果敢に取り組む人こそが、重要なのです。

(つづく)

トップ写真:ラーメン店「翔龍」の人気のブラックラーメン(筆者提供)