"Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]

「セメント王」浅野総一郎物語⑬ 海運会社発足、初仕事は屯田兵の輸送

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・日本郵船は三菱が経営の主導権を握り、「独占の弊害」目立つ。

・明治19年、浅野総一郎、海運業界に参入。

・三菱が渋った屯田兵輸送を引き受け、利益を出した。

 

浅野総一郎にとっては、石炭やセメントという「山」での仕事だけではない。「海」も新たな戦いの舞台となりました。

先にお伝えしたように、三菱商会と共同運輸は2年余り死闘を繰り広げた後、明治18年に合併し、日本郵船が誕生しました。

日本郵船は事実上、三菱が経営の主導権を握っていました。海運業界の中では、圧倒的な巨大会社で、「独占の弊害」が目立ってきました。繰り返し運賃を引き上げました。

総一郎は明治19年7月、渋沢栄一に直談判した。

「頭を下げて高い運賃を支払うのは、嫌です。自分の会社で使う石炭とセメントだけでも、せめて自分の船で運びたいと思っています。これだけ運賃が高いと、日本の会社の競争力が低下します。出資してください」。

渋沢もこの話に頷きました。出資することになり、浅野回漕店が明治19年11月に発足しました。

総一郎が最初に手に入れたのは、ドイツ人が保有していた中古の船、「ベロナ号」です。2000トンの船で、価格は4万円です。のちに、「日の出丸」という名前に変えました。

日本郵船が独占している海運業界への参入。前途多難が予想されましたが、ベロナ号を購入した直後、仕事が舞い込んできたのです。つくづく、浅野総一郎は運に恵まれていますね。

北海道屯田兵長官、永山武四郎が総一郎に面談を求めました。宿泊している東京・麹町の旅館、相模屋に来いという指示です。屯田兵とは、明治時代に北海道だけに存在した、開拓をかねた軍組織のことです。

永山は終生北海道の開拓にこだわり、2代目の北海道庁長官となった人物です。屯田兵の生みの親とも言われ、一本気な性格で知られていました。

総一郎はさっそく、その宿を訪れました。永山からは開口一番こう言われました。

「おたくはベロナ号を購入したそうだが、屯田兵2000人余りの輸送をお願いしたい。実は今度、堺から小樽まで急きょ、屯田兵を運ぶことになった」。

永山はさらに語気を強めました。「日本郵船に相談すると、1万円でないと輸送できないと言われた。おれは5000円ぐらいで輸送してくれと頼んだのだが」。

そこで総一郎に白羽の矢を立てたというのです。

その上で、こう話しました。「日本郵船には5000円ぐらいにしてくれと言ったのだが、君の会社なら7000円ぐらい出してもいい」。

それに対し、総一郎は自分の会社は安い価格で多くの荷物を積むのが目的として設立したものだとし、7000円以下の料金でも構わないと説明しました。

総一郎は永山とすっかり意気投合。この旅館で料理に舌鼓し、酒を飲みました。こうした総一郎の動きに敏感に反応したのは、日本郵船です。すぐに、永田に面談を申し込んだのです。

「1万円ぐらいが相場だと思い、金額を提示させていただきました。でも考えてみれば、屯田兵を北海道に送るというお国の仕事。儲け度外視で、タダでもやりたいと思っています。手前どもに仕事をさせてください」。

浅野というライバルが出現したことで、日本郵船は豹変したのです。永田の怒りはいっそう高まりました。「ほかに船がなければ1万円を要求し、競争相手がいればタダだというのは、言語道断だ」。

浅野回漕店が結局、屯田兵の輸送の仕事を7000円で引き受けることになりました。屯田兵を乗せた船は、25日かけて、堺から北海道まで運行したのです。これで、5000円の利益を出しました。交渉力は、浅野総一郎の真骨頂と言えます。現代の経営者やサラリーマンも学ぶべきところが多いですね。

(⑭につづく。

トップ写真:北海道庁第2代長官永山武四郎(生没年:1837年~1904年鹿児島県鹿児島市)出典:北海道庁