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.政治  投稿日:2023/5/2

「セメント王」浅野総一郎物語① 貿易立国ニッポンを夢見て


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・ポストコロナでは産業構造自体が大きく変わる可能性がある。

・「セメント王」浅野総一郎は「京浜工業地帯の父」としての側面を持つ。

・海を埋め立て工業地帯を整備する構想は「貿易立国ニッポン」の礎になった。

 

5月8日に新型コロナの感染症法上の位置づけが5類に移行する。いよいよポストコロナに突入する。歴史を振り返れば、感染症をきっかけに、社会が大きく変化してきた。ポストコロナでは、これまでの産業構造自体が大きく変わる可能性がある。私たちは、新たな時代、潮流に立ち向かわなければならない。

次に一手をどう打つか。そんなポストコロナを考える上で、示唆に富む人物がいる。明治、大正に名を挙げた浅野総一郎だ。富山県氷見市生まれ。故郷では様々な事業を手掛けるが、失敗し、上京した。のちに「セメント王」と呼ばれたが、それ以外にも、製鉄、港湾、海運、造船にも参入。日本の近代化をけん引する大実業家になった。

その仕事は驚くほど、多岐に渡る。その中でも、私が刮目するのは、「京浜工業地帯の父」という側面だ。

その始まりは、明治30年5月だった。日清戦争終結から2年後だ。49歳の総一郎は「海を埋め立てて近代国家日本の礎を造りたい。重要なのは、巨大な船が接岸できるような岸壁を持つ港を作ることだ」と強調した。

当時、日本では、日清戦争の勝利の余韻が漂っていた。眠れる獅子と呼ばれた清王朝に勝利したことは、世界では「奇跡」と受け止められた。もはやアジアの小国ではない。日本人は維新後30年近く経ち、やっと気分が鎖国から解き放された。

総一郎の構想は、貿易立国ニッポンの礎になるようなものだった。具体的には、遠浅の海を埋め立て、工業地帯を整備する。さらに、大型船が横付けできるような深い海底の港を造る。埋め立てでできた工業地帯で製造された製品は、港に停泊した船ですぐに輸出される。一方、その港や埋め立て地には列車を敷設する。世界各国から船で輸入されたものを、すぐに全国各地に列車で運べるようにするためだ。つまり、船、港、工場、列車を有機的につなげようという構想だ。

▲写真 浅野総一郎翁銅像(神奈川県横浜市神奈川区、浅野中学校・高等学校)ⒸJapan In-depth編集部

「政府にまかせておいたらいつまでたっても、やらないだろう。日本は日清戦争で勝ったが、それで浮かれていても、一時的なものだ。日本が本当に豊かになるためには、工場で製品を造ってどんどん輸出してくことが重要なんだ。外国にモノを売ってお金を儲けることこそが日本人が飛躍できる手段だ。国内だけを見ていてはいかん。決して簡単な事業ではないが、なんとしてもやりたい。俺にとっての起業家としての大勝負だ」。

この構想は、欧米への出張がきっかけで芽生えた。総一郎は明治30年4月、東洋汽船の社長として9カ月に及ぶ海外出張を終えた。これは横浜とサンフランシスコの航路を決め、イギリスで船の建造も発注するための旅だった。

やっと懐かしい横浜港が近づいたが、久しぶりに見ると、あまりにも貧弱な港だった。

総一郎が乗船していたアメリカ船籍の船は、アメリカでは岸壁に横付けできたが、横浜では海が浅すぎて、港に近づくことができない。海岸から遠く離れた沖合に錨を下ろし停泊する。そこに艀(はしけ)と呼ばれる小さな数十隻の船が近づき、人や荷物を運搬する。港に横付けできないのだ。

横浜と言えば、日本にとって「表玄関」だ。それなのに無様な姿に映った。総一郎が乗っていた船には、外国人96人、日本人4人がいたが、外国人の一人は艀を指さし、「あれは何なんだ」と怪訝な表情で尋ねてきた。

総一郎は身振り手振りで艀の説明をしたが、何か辱めを受けているような気がして、冷や汗が出た。見慣れた風景のはずなのに、なぜこんなに恥ずかしく感じたのか。それは、今回の旅行で、アメリカ、カナダ、イギリス、ロシアなどの港湾の設備を見たためだ。

ハワイでは、巨大な船が港の中に入り、岸壁に接岸。そこに、汽車が待ち、すぐに荷物を運んでいた。ロシアの黒海湾の港。こちらも、巨大な汽船も岸壁に横付けできるように浚渫されていた。しかも港には、山上の畑から往復16マイルのベルトコンベアが敷設されている。つまり、畑からじかに小麦の袋がどんどん運ばれ、船積みできる仕組みだ。3000トンの小麦の船積みはわずか一日で完了した。

ドイツのハンブルク港はさらに驚くべき機能を持っていた。大豆8000トンを積んだ船が岸壁に横付けされる。岸壁には、25両の30トン貨車が並んでいた。この貨車と船倉の口には、それぞれ袋のようなものが装着されており、電源を入れると、船の中の大豆は、袋を伝って貨車の中に入っていく。荷揚げが完了するまでわずか10時間だった。

(②につづく)

トップ写真:浅野総一郎翁銅像(神奈川県横浜市神奈川区、浅野中学校・高等学校)ⒸJapan In-depth編集部




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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