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.政治  投稿日:2023/5/4

「セメント王」浅野総一郎③ 「銀行王」安田善次郎が救世主に


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・浅野総一郎は「日本一の銀行王」安田善次郎を頼った。

・安田の融資により、大正2年8月に埋め立て工事が着手された。

・日本経済を発展させたのは、こうした銀行と企業との関係ではないか。

 

浅野総一郎が頼ったのは、「日本一の銀行王」として有名だった安田善次郎だった。

「安田さん、埋め立てて工業地帯を作りたいと思っています。これは商売を度外視しても、日本が今後、貿易国家として羽ばたくには、不可欠です。私の企業家人生で最大の仕事になると思っています。どうか、協力してもらえませんか」。

総一郎は埋め立て工事の計画書を見せながら、訴えた。安田善次郎はその計画書をさっと目を通し、返答した。

「この事業は国家経済に及ぼす影響は極めて大きい。浅野さんのおっしゃるように、一日もゆるがせにできない問題です。この事業をお手伝いできれば、私も銀行家としてこれほど嬉しいことはありません」。

その上で、一言付け加えた。「ただ、人様のお金を預かっている立場です。本当に採算性があるのかどうか、自分で現地に出向いて調査したいと思っています」。

安田は80歳近くだったにもかかわらず、二人の港湾関連の技術者を連れて、川崎の沿岸の宿に3泊泊まった。いかに浅野について信頼していても、やはり、銀行家として事業の採算性を自分の目でチェックする必要がある。不良債権につながりかねない無謀な融資は避けたい。安田が調査の際に留意したのは、京浜の海で、実際どのように満ち引きがあるかだ。朝は6時に海岸に出て、海に浸かりながら、潮がどのように引くのが目でチェックした。干潮になると、草履を履いて歩き、砂をすくって手にとってみた。

さらに、夕方の午後5時からは船に乗って、沖合まで出て釣りをした。満潮の様子を見るためだ。改めて分かったのは、埋め立てに絶好の海だということだ。

安田は三日三晩、現地調査をした後、笑顔で総一郎に会った。

埋め立ては十分に見込みのある仕事です。融資しましょう。ほかの人がこの事業に賛成しないなら、浅野さんと私の二人で、やりましょう」。

総一郎は緊張が解け、安どの表情を浮かべた。

「安田さんが賛同してくれたのは、100万の味方を得たよりも心強いと思っています。ただ、私一人で半分出資するほどのお金はありません。ほかの人にも出資をお願いしようと思っています」。

安田が老体を鞭打って三日三晩も現地調査した意味は大きかった。他の人もすぐに賛同し、鶴見埋め立て組合が誕生した。

大正2年8月に埋め立て工事が着手された。総一郎は66歳になっていた。海外視察の後に、東京湾の埋め立てを言い出してすでに17年。執念で夢が実現した。

総一郎を支えた安田善次郎は安田財閥の創業者で、「銀行王」として知られる。東大の安田講堂や日比谷公会堂を寄付したが、匿名を貫いた。「寄付は名声を得るためにするのもではない。陰徳でなくてはならない」という考え方だった。生前はこうした寄付については一切口をつぐみ、「陰徳の人」と呼ばれた。ただ、融資に対する姿勢は厳しく、ケチという悪評も付きまとった。安田にしてみれば銀行のお金は「人様から預かった大事なお金」。それを貸し出し、焦げ付かせるわけにはいかない。どんなに親しい友達が融資をお願いしても、事業をチェックし、自分の人物で見て、「返済能力なし」と判断すれば、”冷酷”に断った。

それでも、見込んだ人には、融資した。その安田が最も期待した企業家が浅野総一郎だ。たまたま同じ富山出身だが、同郷意識で融資したわけでない。総一郎の事業の採算性をチェックし、人物を信頼したからこそ、動いた。

それにしても、銀行融資の理想的な姿がここに浮かび上がる。企業経営者は自分の事業計画をもとに、銀行家を説得する。銀行家は経営者の事業を徹底的にチェック。さらに経営者本人の能力や人柄なども踏まえ、融資の可否を判断する。日本経済を発展させたのは、こうした銀行と企業との関係ではないだろうか。

(つづく。

トップ写真:安田善次郎、天保9年10月9日〜大正10年9月28日(1838年11月25日〜1921年9月28日)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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