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鮎川義介物語⑱(最終回)日米開戦回避にも尽力

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・政治思想的に真反対の右派と左派の「ドン」が鮎川を慕った。

・鮎川は戦時期に、日米開戦を回避するため懸命に工作していた。

・鮎川のような公益を目指す起業家が日本の明日をつくる。

 

再び、昭和42年2月17日の鮎川の葬儀。この日の朝日新聞夕刊には、大内兵衛の名前がありました。

「社会党から東京都知事選に出馬要請を受けた東京教育大学教授の美濃部亮吉氏は、17日午前、鎌倉市の元法政大学総長の大内兵衛氏をたずね、出馬要請について相談した。その結果、美濃部氏は要請を辞退することにし、同日午後2時、大内氏から社会党の成田書記長に電話でこの旨を伝えた」。

このころ、美濃部亮吉氏が社民党の推薦で都知事選挙に出馬するかどうか、マスコミが大騒ぎしていました。美濃部氏は経済学者で、マルクス主義の経済学者の大内兵衛の弟子。大内が美濃部出馬を調整していました。大内は一介の学者というよりも、日本の左派勢力の「ボス」のような存在でした。

美濃部は最終的には、都知事選挙に出馬。「都政に赤旗を立てさせるな」などという右翼の街宣車などが出たものの、美濃部は競り勝ちました。老人医療の無料化や公営ギャンブルの禁止などを打ち出し、戦後の革新勢力の絶頂期を築いたのです。その最大の立役者が大内でした。岩波の「世界」や朝日新聞で論陣を張り、社会主義勢力を支援しました。

岸信介と大内兵衛。岸は自主憲法制定を目指しました。「どんな道楽でも大半は途中で飽きるものが、政治だけは別だ。死ぬまで飽きないね」と言い続け、“昭和の妖怪”との異名も持ちました。孫の安倍晋三が政権に復帰し、再び注目を浴びます。一方の大内は進歩的文化人の総帥だったが、社会党、それに引き継ぐ社民党の衰退とともに、忘れ去られていいます。

日本の政治勢力の二大潮流、「改憲派」の岸信介を筆頭とした右派勢力と、大内兵衛を理論的指導者とした左派勢力。政治思想的に真反対の二つの勢力の「ドン」が鮎川を慕った。私はそこに鮎川の大きさを感じます。

さらに、驚くのは、鮎川がもう一つの顔です。戦時期に、日米開戦を回避するため、懸命に工作していたのです。満州については、アメリカ資本を導入し、日本とアメリカが共同で重化学工業化すべきだと主張していました。その考えはユニークな論文の形になってあらわされます。「ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表。

5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に移住させ、同時にユダヤ系のアメリカ資本の導入を図る政策です。ユダヤ系アメリカ人はアメリカ国内で大きな政治的な影響力を持っており、鮎川は、アメリカ資本の誘致で、緊張関係を少しでも緩和できるのではないかと考えました。

また、日独伊の三国同盟に反対し、アメリカやイギリスとの関係改善を図っていたのです。それは日本側の「1人相撲」ではありません。鮎川は、アメリカの政財界人らとのネットワークを構築し、側近の高碕達之助を使って、元大統領のフーバーらと共闘を図っていました。フーバーはフランクリン・ルーズベルトの対日強硬姿勢に反対しており、鮎川は気脈が通じていました。

それにしても、鮎川義介の生涯をたどっていくと、私は驚嘆の連続でした。「俺は絶対に金持ちにならない。だが、大きな仕事をしてやろう。願わくば、人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面を切り開いていこう」。これは鮎川の言葉です。こうした公益を目指す起業家が登場することこそが、日本の明日をつくるのです。

(完結。。

トップ写真:鮎川義介 出典:「近代日本人の肖像」国立国会図書館