鮎川義介物語⑰岸信介だけでなく、左派の大物とも親交
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・鮎川は総理特使として、訪米し、戦後の日米貿易の礎を築いた。
・マルクス主義の経済学者大内兵衛は、鮎川に対し尊敬の念を抱き続けた。
・鮎川は大内が勤めていた大原研究所に惜しみなく資金援助した。
さて、この連載の冒頭でお伝えした、昭和42年2月17日の鮎川義介の葬儀に戻りましょう。
岸信介は弔辞を続けました。
「戦後戦犯容疑でともに巣鴨に入っていた頃に散歩の時間に、私のいる獄窓の下を通る折に、連絡事項を書いたり、時には元気でいるかと書いた紙片を窓から投込んだりして、それが見付かって大目玉をくったこともありました」。
戦後鮎川と岸はともに戦犯となり、巣鴨の刑務所に入っていました。
その後、総理大臣に就任した岸は、鮎川に経済最高顧問の就任を要請。鮎川は総理特使として訪米し、アメリカの政財界の要人と会談しています。戦後の日米貿易の礎を築いたといえます。
岸と言えばバリバリの反共主義者。60年安保闘争の最大の敵とみなされ、国会が連日デモ隊に囲まれ、最終的には退陣に追い込まれました。進歩的文化人が言論界で幅を利かせる当時の風潮では、岸には悪いイメージがありました。
そんな政治家と昵懇だった鮎川です。しかし、意外な人間関係があります。
大内兵衛との親交です。大内は元法政大学学長で、戦後を代表するマルクス主義の経済学者です。岩波文化人、いわば、進歩的文化人の代表格でした。社会党左派の理論的指導者です。岸政権とは真っ向から対立する論陣を張っていました。
それなのに、大内は鮎川に対しては尊敬の念を抱き続けました。
大内は、鮎川追悼の文章を書いています。
「鮎川さんの公的な心持は崇高というより外に形容のしようがない。大原研究所は関西の財界の特異な実業家大原孫三郎の独力の公的事業であったのだが、大原さんが死んでからはその後を受けて事実上の出資者となったのは、鮎川さんであったわけだ」。
2人の関係は少し説明が必要です。大内が勤めていた大原社会問題研究所は実業家の大原孫三郎氏が設立しました。社会政策学会の左派が中心となり、戦前、軍国主義が台頭する中でもマルクス経済学の研究を続けました。この研究所は特高(特別高等警察)から、危険団体としてマークされていたのです。
この研究所はいつも資金難でした。刊行書籍などの印税だけでは、職員の給料を支払うことも困難になり、大内は旧知の経済評論家に、研究所の維持費を確保するのは困難だと相談しました。そして、蔵書の一部の売却する意向を示したのです。その経済評論家が、大原研究所の“危機”を打ち明けた相手が鮎川でした。
鮎川は「書籍の散逸は惜しい。こんな時代だからこそ、大原のようなところで研究を継続すべきだ。大原研究所の貴重なライブラリーをそのまま維持し、基礎的な研究を続けるべきだ」と主張しました。
鮎川は昭和17年暮れにまとまったお金を寄付し、義済会をつくりました。この義済会が大原社会問題研究所に寄付を始めたのです。調査研究活動には口出しせず、研究成果についての報告書の提出を求めなかったといいます。
鮎川は「大原研究所の貴重なライブラリーをそのまま維持し基礎的な研究をつづけることが私の希望なのだ」と惜しみなく資金援助しました。
大内は鮎川と親交を深めました。
「戦後鮎川さんが戦犯に擬せられて巣鴨に送られる前日であった。鮎川さんは筆者(大内)を招いて、『巣鴨では君の方が先輩だ、その心得を語れ』といった。私はそれに答えて『ああいうところに行けば落花流水、のんきにやるしかない』といった。その後、彼は獄中からたびたび通信をおくり、その道において達人となったことをほこらかに私に告げてきた。そこで私も返書を送って彼をなぐさめた。結局鮎川さんのような達人は『囚人』として三畳の部屋におしこんでもおいてもその志はそんな壁などどうにでもなるものではない」。
昭和一二年に大内ら多くの学者は治安維持法違反で検挙されました。収監された経験は、大内の方が「先輩」というわけです。
(⑱につづく。①、②、③、④、⑤、⑥、⑦、⑧、⑨、⑩、⑪、⑫、⑬、⑭、⑮、⑯)
トップ写真:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新・日米安保条約)に署名する首相岸信介首相とクリスチャン・ハーター米国務長官(1960年1月19日 ワシントンD.C.)出典:Photo by Marion Trikosko/Library of Congress/Interim Archives/Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。