鮎川義介物語⑭「日産株が世の中を明るくする」
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発。日中戦争が始まる。
・アメリカの資本や技術を望めない状況となった。
・それでも、日産株は一気に7割も高騰した。
満州進出を決めた鮎川義介ですが、前回お伝えしたように、アメリカからの資金や技術を導入しようとしていました。
しかし、その計画は暗礁に乗り上げます。日本と中国の間で大きな事件が起きたのです。盧溝橋事件です。日本軍は昭和12年7月7日夜、北京西南50キロの盧溝橋で、夜間演習中していた際、暗闇から銃撃を受けたのです。打ち込んだのは、中国軍として、日本軍は八日午前5時半に反撃しました。
陸軍では、すぐに発砲事件、武力衝突が知らされました。陸軍がちょうど、定例の課長会議を開いているときでした。
この日は気温が高く、昼前に30℃を超えていました。会議の中では、「中国を徹底的に叩け」という意見が大勢を占めたのです。会議をリードしたのは、軍務局軍事課長の田中新一大佐でした。東条英機をリーダーとした新統制派の中枢人物で、満州派の石原莞爾らといつも対立していたのです。
これが日中戦争の始まりです。それ以降、天津や上海など戦闘地域が拡大し、日本は泥沼の戦争に突入していくのです。それは、アメリカの対日感情悪化につながっていきます。アメリカらの資本や技術を望めない状況となったのです。
さて、昭和12年11月20日の日産の株主総会で、鮎川は、満州進出に関連して、大演説を打ち上げました。
「日産は移るのですが、子会社は移転するわけではありません。普通の会社であったなら、満州国に移るには、工場を持っていかねばならない。お金を持っていくとすれば、工場で得た利益しか持っていけない。しかし、日産は持ち株会社であり、資産は工場や鉱山でなく、株券だ。したがって、株券をそのまま飛行機で持っていける。その株券を担保にしてお金を借りることも可能だ。その株券を持って行っても、子会社の工場はそのまま業務を行うことは可能なのです」。
その上で、こう指摘しました。
「世間では日産が満州国を飲み込んだという指摘もあるが、それは大変な間違いだ。むしろ日産は満州国に飲み込まれたようなものだ。満州国が半分の株式を持っているので、あと株を一株買い足せば、過半数取得することになる。煮るのも焼くのも満州国次第ということになる」
さらに、日産が2億5000万円、満州国が2億5000万円出資することを明らかにしました。日産の5万5000人の株主は、自分の会社が満州で何をやっているのか、新聞を手にすればわかる
と主張しました。
その後、質問の時間になりました。株主の中からは「鮎川社長、よくやった」「満州でも頑張ってくれ」と、絶賛する声ばかりとなった。すると、鮎川は「私を褒めるのはもうやめて、経営に対する質問だけにしてくれ」と言い出すありさまでした。
この株主総会は、伊藤博文の息子である伊藤文吉の万歳三唱で終えました。日産株は一気に7割も高騰し、兜町では「日産株が世の中を明るくし」という川柳までが流行ったのです。
(⑮につづく。①、②、③、④、⑤、⑥、⑦、⑧、⑨、⑩、⑪、⑫、⑬)
トップ写真:関東軍の兵士達(1938年頃 満州)出典:Photo by Underwood Archives/Getty Images
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。