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.国際  投稿日:2026/4/3

ベトナム戦争からの半世紀 その50 革命ゲリラの登場——サイゴン陥落の日、私が目撃したもの




執筆者:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視


■本稿のポイント

・1975年4月30日正午、筆者(毎日新聞サイゴン特派員)はサイゴン市内で南ベトナム軍の敗走と崩壊を目撃した。

・北ベトナムは「南領内に正規軍を送っていない」と主張していたが、その虚構の構造と実態を、筆者は現地取材で熟知していた。

・サイゴン港では国外脱出しようと軍艦に殺到した市民たちと、「解放された、帰ってこい」と叫ぶゲリラの若者との間に、歴史的な場面が展開された。

1975年4月30日、毎日新聞サイゴン特派員だった筆者は、南ベトナムの首都サイゴン市内で革命勢力軍の入城を目撃しようと取材を続けた。アメリカ製M48戦車を放棄して逃亡する南軍将兵、道路脇に虚脱した数千人の敗残兵、そして三色旗を掲げてサイゴン中心街に初めて現れた若いゲリラたち——本記事は、当時毎日新聞サイゴン支局長であったジャーナリスト・古森義久氏がその一部始終を現地で取材した迫真の記録である。(Japan In-depth編集部)


■サイゴン橋へ——敗走する南軍の姿

 4月30日の昼、私はサイゴン市内への革命勢力軍の入城を目撃しようと、車を走らせた。まずサイゴン中心街から東へ、サイゴン橋の方向へ走った。この方面の革命勢力の軍事動向が最も果敢で先鋭的だと思われたからだ。

 だが市街はまだ退路を求める市民たちで満ちあふれていた。北ベトナム軍がサイゴンを支配すれば、南側の自分たちは迫害されるだろうという恐怖に動かされていることは明白だった。アメリカ側でも国務長官になっていたヘンリー・キッシンジャー氏らが「北ベトナムが完全勝利すれば大規模な虐殺があるだろう」などと述べていたことも南ベトナム側には伝わっていたのだ。とくに1954年の南北分断で北ベトナムから南への移住を望んだ数百万もの市民たちはその離反を北側から報復されるというウワサに影響されていた。

 そんな混乱の市内をサイゴン橋に通じるフンブオン通りまでくると、びっくりする光景に出くわした。ゆったりとしたこの通りを大きな戦車が超スピードでこちらに向けて走ってくるのだ。南ベトナム軍のアメリカ製M48タンクだった。サイゴン市内はふだんは戦車の通行はパレードでもない限り、禁止されていた。だから市内中心街での戦車の疾走という情景自体が異様だった。だがこの戦車は泥まみれで、まもなく道路のど真ん中で停まり、内部から2人の兵士が飛び出してきた。道路脇で二人は緑色の軍服を脱ぎ捨て、下着だけになって、市民の群れに加わり、消えていった。明らかに北軍の攻撃を恐れ、逃亡したのだった。

 サイゴン橋を目指して、もっと進むと。さらに広々としたファンタンジアン通りに出た。そこで前方をみると、さらに衝撃的な光景が広がっていた。幅広い道路の両側におびただしい数の南軍兵士たちが座りこんでいたのだ。その背後には戦車、装甲車、トラック、ジープなど、あらゆる軍用車両が停まっていた。その車体やタイヤに数千人もの将兵がぐったりと体をもたらせるように、べったりと坐っているのだ。誰もが疲れきって、体を投げ出し、身じろぎさえ感じさせない。虚脱と静寂、まさに戦いに敗れた軍隊のすべてを凝縮していた。こんな光景が現実にあるのだと、信じられない敗戦の将兵たちの姿だった。

 それでもなおサイゴン橋の方向への車を走らせようとした私は10数人の南ベトナム軍の将兵の集団に停止を求められた。停まると、彼らは真剣な表情で、これ以上に前進すると危険だと警告するのだった。南側の停戦命令が出ていても、すぐ近くまで迫っている北ベトナム軍はなお戦闘は止めてはおらず、銃撃はいつ起きるかわからない。いくら日本の国旗を掲げていても、自動車が前進してくれば、撃つ恐れもある、というのだった。この将兵たちの口調は日ごろの戦場で外国人記者の動きを止める命令ふうではなく、本当に危険だから止めたほうがいいぞと、忠告するように響いた。私はその言葉を素直に受け入れ、それ以上の前進は止めた。市内の中心部へとまた戻ったわけである。

写真)北ベトナム軍の戦車隊が突入した直後の南ベトナム大統領官邸の前庭
出典)筆者が官邸の上層階から撮影


■三色旗のジープ——革命ゲリラの登場

 正午すぎ、毎日新聞サイゴン支局のある中心部のタイラプタン通りに変に張り詰めたざわめきが起きた。「あっ」というか、「うっ」というか、言葉にならないうめき声が聞こえてきた。その声の方向をみると、この南ベトナムでは考えもできなかった白昼夢のような情景があった。7,8人の若者が赤と青の地に黄色の星を描いた旗を掲げて、車に乗っているのだった。この三色の旗は南ベトナム臨時革命政府の国旗に等しい旗だった。南ベトナム民族解放戦線の旗でもあった。

 若者たちはアメリカ製のジープに乗っていた。10代から20代の青少年にみえた。みな白シャツに黒ズボンというふつうの市民の服装だった。ただしみな中国製のAK47やアメリカ製M16というライフルを持っている。サイゴン市内に前からひそんでいたゲリラが南政府の崩壊ということで登場したのか、それとも首都の外から侵入してきたのか、一見ではわからなかった。ただし服装もジープもそう汚れてはおらず、激しい戦闘地域をくぐりぬけてきたようにはみえなかった。

 南ベトナム政府は長年の戦争中、赤、青、黄の三色の革命勢力側の旗は掲揚などは犯罪だとして禁止していた。そんな旗が市街の中心に出てきただけで、まさに驚天動地の光景だった。ただしこの三色旗は革命勢力の本体の北ベトナム(ベトナム民主共和国)とは異なる。北ベトナムの国旗は赤の地の中央に黄色の五稜の星を描いていた。その地の下半分を青にしたのがまさに南ベトナム臨時革命政府の旗とされていたのだった。

 こんな旗だけでも複雑な構図はその背後にある巨大な虚構の産物だった。この戦争では一方の主役である北ベトナムは当初から南ベトナム領内には自国の軍隊を送りこんでいないと主張していた。南領内で米軍やアメリカに支援された南政府軍と戦うのはあくまで南領内の民族独立勢力だと宣言していたのだ。だから北ベトナムの人民軍正規部隊も南領内に入れば、階級章などを外し、南独自の解放戦線の部隊だと自称していた。私はそんな主張が虚構であり、実際の闘争の主役は北ベトナムに本拠をおく共産政権であり、その直属の軍隊であるという実態をビンディン省の革命地区に入った際にも、しっかりと認識していた。ただしその現実は敵だった南ベトナム政府とその住民も、またアメリカ側も当初から熟知していた。

 

■サイゴンの銀座を行くゲリラのジープ——市民の反応

 若いゲリラを乗せたジープはサイゴンの銀座とも呼べたツド―通りに入っていった。私は自分の車を運転して、そのすぐ背後からついていった。ジープの若者たちは歓喜いっぱい、というふう沿道の市民たちに手を振り、旗を振った。銃をも握って、振り回していた。

市民たちは知覚が麻痺したかのごとく、茫然と立っているだけだった。そのうちその一部がはっと気がついたように、手を振った。とってつけたようなぎこちなさだった。そのうちシャッターが閉まったままの沿道の商店などからも少しずつ人が出てきて、手を振り始めた。

やがて沿道の群衆の中から青年が一人、飛び出して、ガソリンをいれたらしいポリエチレン容器をジープのゲリラたちに提供していた。早くも恭順の意を表したということだろう。

 私はそのジープが一時停車して、乗っていた若者たちが街路の市民に直接に声をかけ始めたとき、車から降りて、接近してみた。写真をとろうと意図したのだ。だが興奮したゲリラたちが報道陣とはいえ、見知らぬ外国人のカメラを構えての接近にどう反応するかわからない。私はゆっくりとして足取りで、カメラを正面に掲げ、近づいた。そのうちゲリラの一員を確実に視線があったことを意識して、カメラをことさら大きな動作で構えた。ゲリラの笑顔は変わらなかった。だから安全と判断して、何枚かの写真を撮影した。

写真)革命軍の兵士がサイゴン市民と話し合う写真

出典)筆者撮影

■サイゴン港の波止場——「帰ってこい」と叫ぶゲリラ

 ジープはやがてサイゴン川岸の波止場に出た。サイゴン港の一部であるその波止場には南ベトナム海軍の古びた艦艇が2隻、係留されていた。2隻ともかなり大型の軍事輸送船にみえた。その2隻にはサイゴンから脱出しようとする一般の市民がそれぞれ数千人ほどもぎっしりと乗り込んでいた。古びた艦艇がはたして航行できる機能を保持しているかもわからない。だが海上から国外へのなんとか逃げようとした市民たちが荷物を抱えて殺到し、勝手に乗り込んでいたのだ。

 

 革命側のジープはその波止場にきて、停まり、年長らしい2,3人が車上に仁王立ちになり、船に向かって大声で叫び始めた。

 「おーい! みんな帰ってこい。怖がる必要はないぞ」

 大きく手を振り、叫び続ける。船から降りて、もどってこいというジェスチュアを繰り返した。ベトナム戦争の最後の日、パニックに襲われ、いたずらに国外脱出を図る市民たち、それを「サイゴンは解放されたのだ」と叫んで、制止するゲリラの若者。本来ならまさに歴史的な場面である。だが実際の目前の光景は若者の叫びは浮き上がったように不自然で、声をかけられた市民の側もただうつろな表情をみせるという様子で、劇的な展開とはほど遠くみえた。しかし船上にいた人たちも、やがてはあきらめたように、引きずるような足取りで波止場へと戻ってきた。
(その51につづく。その49, その1

■ FAQ

Q1. 筆者はなぜ1975年4月30日のサイゴンにいたのか?

A. 古森義久氏は当時、毎日新聞のサイゴン駐在特派員として合計約4年間、ベトナム戦争とその後の革命を現地取材していた。サイゴン陥落の日は革命勢力軍の入城を目撃・取材するため、市内各地を車で移動していた。

Q2. 南ベトナム軍が使用していたM48タンクとはどのような戦車か?

A. M48パットンはアメリカが開発した第一世代の主力戦車で、ベトナム戦争ではアメリカ海兵隊と南ベトナム政府軍が主に使用した。アメリカ軍の供与を受けた南ベトナム軍の主力装備の一つだったが、サイゴン陥落の日には将兵に放棄され、そのまま道路に残された。

Q3. 革命ゲリラが掲げていた三色旗とはどのような旗か?

A. 赤・青・黄の三色旗は南ベトナム臨時革命政府および南ベトナム民族解放戦線の旗。南ベトナム政府は長年この旗の掲揚を犯罪として禁止しており、その旗がサイゴン中心街に初めて現れたことは「驚天動地」の光景だった。北ベトナムの国旗(赤地に黄色の五稜の星)とは別物で、「南の解放勢力」という虚構を体現したものでもあった。

Q4. 北ベトナムが「南に正規軍を送っていない」と主張したのはなぜか?

A. 北ベトナムは国際的な正当性を保つため、「南ベトナム領内で戦っているのはあくまで南の民族解放勢力だ」と宣言していた。しかし実態は北ベトナム人民軍の正規部隊が階級章を外して南領内で戦闘していた。筆者はビンディン省の革命地区への取材でこの虚構を現地で確認していた。

Q5. サイゴン港の場面はなぜ「劇的な展開とはほど遠い」と筆者は述べたのか?

A. 歴史的に見れば「解放者と市民の感動的な対面」となるべき場面だったが、ゲリラの呼びかけは浮き上がったように不自然で、市民たちもうつろな表情を見せるだけだった。長年の戦争と恐怖の積み重ねの中で、「解放」の言葉が素直に届かない現実の複雑さを、筆者は冷静な目で記録した。

■ シリーズ・アーカイブの紹介

本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。

▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]


トップ写真:数人の将兵たちが直面しあっている写真。南ベトナム国防省の北軍による占拠の場面。(筆者撮影)




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