ベトナム戦争からの半世紀 その39 北軍のサイゴン総攻撃作戦とは

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・1975年4月25日、北ベトナム軍がサイゴン至近のビエンホア基地を制圧し、サイゴン総攻撃に向けた最終準備を開始。
・南ベトナム軍は5個師団などで首都防衛を試みたが、北ベトナム軍は国家総力を投入した15個師団で主要拠点への突撃作戦を立案。
・同日、グエン・カオ・キ将軍は徹底抗戦を訴える演説を行った一方、元大統領チュー氏は秘密裏に国外脱出した。
南ベトナムのフオン新大統領が北ベトナム側への停戦交渉を求める声明を出した1975年4月23日、北軍はサイゴン首都圏内にある南軍の重要基地ビエンホアへの激しい攻撃をかけてきた。ビエンホアはサイゴン中心部から北東へほんの25キロの位置にあった。ついその前に激戦のあったスアンロクが首都圏への入り口だったのに対して、このビエンホアは首都圏内の主要基地だった。
ビエンホアは南軍の第三軍管区の司令部があり、スアンロクで戦った第18師団がなお防衛にあたっていた。ビエンホア基地は南側の空軍の主要基地でもあり、なお多数の戦闘機や爆撃機が残っていた。この基地に対して北軍はまず猛砲撃を浴びせた。各種の砲による攻撃は基地内の滑走路、格納庫などを正確に破壊していった。南軍はこの砲撃に対して戦闘機やヘリを離陸させ、サイゴン市街のすぐ北にあるタンソンニュット基地へと撤退させた。首都にとっての最後の空からの守りという態勢だった。だがビエンホア基地も北軍の大部隊により攻撃開始から2日目の4月25日には完全に制圧された。
北ベトナム軍はこのビエンホア制圧の直後からそれまでの猛スピードでの攻勢を鈍化させた。南ベトナム軍の各所の部隊への攻撃を一時、停止したかのようにもみえた休止だった。この変化はサイゴン側に「共産側も南政府の停戦の求めに応じる構えなのだ」という楽観的な期待をも生んだ。しかし現実は異なっていた。北ベトナム軍はいよいよサイゴン総攻撃の段階に入り、そのために全部隊をサイゴン至近の周辺に集結させ最終の突撃をさせるための全軍再配置を急いでいたのだ。ホーチミン作戦の開始準備の最終段階だったのだ。
南ベトナム軍はこの段階で首都圏内部からその周辺、つまりサイゴン防衛には合計5個師団ほどの兵力を残していた。サイゴン北西のタイニン省に第25師団、すぐ北のビンズオン省に第5師団、南西のメコンデルタの入り口のミト市からカント市にかけて第7師団と第22師団、首都東北部にビエンホアから撤退してきた第18師団という残存兵力だった。このうち無傷なのは第5、7、22師団だけだった。そのほかに第2空挺旅団、第468海兵旅団、第3機甲旅団も首都防衛に任にあたっていることになっていた。南軍はこれらの兵力を首都圏内外の40キロから50キロの外郭線にまず配備するという形だった。
北ベトナム側はこれに対して合計15個師団をサイゴンへの総攻撃に投入しようとしていた。この規模は南ベトナム領内に入ってきた北軍の総兵力に近い。北ベトナム本国での部隊を含めてもその9割ほどだった。要するに北ベトナムは国家の総力を投入して、南ベトナムの軍事制圧を達成しようと決意していたのだ。ではその具体的な作戦はどうだったのか。北の人民軍のバン・チエン・ズン参謀総長はロクニンの秘密司令部で以下の具体的戦術を決めていたことが後のズン戦記で明らかにされた。
「損害を少なくして戦闘期間を短くするには一挙に敵の心臓部に奇襲突入して息の根を止めねばならない。そのための主要目標としては5ヵ所を決定した。独立宮殿(大統領官邸)、参謀本部、首都特別軍管区司令部、国家警察本部、タンソンニュット空港である」
「総合的な攻撃方法は以下のようにする。一方で首都の外郭線で防衛にあたっている敵の主力部隊をその場所で瓦解、殲滅させる。同時に周辺地域の各要衝を攻撃し、占領して強力な機械化突撃兵団のために道を開く。突撃兵団は主要な幹線道路を全速で進み、市内に突入して、5ヵ所の目標を占領する」
つまり首都外郭周辺での南側の防衛の5個師団にそれぞれ猛攻を浴びせて、その地点にくぎ付けにしながら同時に首都の心臓部への攻撃を敢行するという作戦だった。合計15個師団約20万人もの兵力を投入する。そのためには北ベトナムという国家が国と国民の総力をあげて一軍事作戦に運命を賭ける。そのための人材や物資もみなサイゴンへ、サイゴンへと動員する。南ベトナムの北部や中部で活動した北の部隊もみな南のサイゴン地区へと移動するわけだった
その間、サイゴンにいた私たちは北ベトナム軍の猛威を増す軍事攻勢の勢いはわかっていても、なお南ベトナム側の出方次第では停戦から政治交渉という道も開けるのではないか、とも思っていた。そんな認識はその時点では国際的な反応とさえいえた。
その一方、サイゴンでは同じ4月25日、私は元副大統領のグエン・カオ・キ将軍と言葉を交わす機会を得た。その日の午後、チュー政権とは距離をおいてきたカトリック教徒の勢力が「救国行動委員会」と歩調を合わせて決起集会を開いた。キ氏はその集会の中心指導者として熱弁をふるった。その場所はサイゴン郊外のロクフン教会前広場だった。その地区は本来は北出身のカトリック教徒が集団で住む地域だった。この集会にも参加者は多く、3000人ほどだった。自国の存亡の危機に頼りになる指導者の話をとにかく聞きたいという感じの熱気に満ちた集まりだった。
現役時代のパイロット服姿で登場したキ将軍は満場の拍手を受けて、勇ましく語った。
「この国はまだ生きる道がある。国民がすべて団結し、死を覚悟して共産側と戦えば、停戦交渉も可能となる。共産側はこちらの自壊を待っているのだ」
徹底抗戦の檄だった。キ将軍の力にあふれた言動に聴衆も魅せられたようだった。
この集会の終了直後、キ将軍が私たち数人の外国人記者たちの質問に答えるというので、至近距離での応答となった。いまの南ベトナムがどうやって活路を開くのか。質問はその点に集中した。キ将軍は数瞬、考えた後、重い口調ながら雄弁に語った。
「サイゴン市民300万のうち50万でも銃をとって戦闘すればよい。死を覚悟すれば共産側にも手痛い打撃を与えられる。サイゴンを第二のスターリングラードにするのだ。そうなれば国際世論も黙っていない。必ず停戦を求め、共産側も応じることを強いられるだろう」
こんな言葉を述べたキ将軍は自分ももちろん死を覚悟して、サイゴンに留まり最後まで戦うと明言した。だが実際には彼はその数日後に国外に脱出したのだった。
同じ4月25日の深夜、数日前まで大統領だったグエン・バン・チュー氏もひそかにサイゴンを離脱した。私は数人の関係者からその直前に情報を得ていた。タンソンニュット空軍基地から飛び立った軍用機にはチュー氏のほか長年、首相を務めたチャン・チエン・キム氏がともに家族をともない合計20人ほどが乗っていた。チュー氏の一行はまず台湾へ飛び、その後はアメリカへの移住が認められたのだった。
チュー元大統領の出国の際の様子を後から大統領警護をしていたボディガードの一人から直接に聞いた。柔道を通じての知己で、送別の場にいた人物だった。
「トントン(大統領)は無表情で、すっかり気が抜けたようにみえた。搭乗の直前、長年の警護にあたってきた私を抱いて『ありがとう。元気でな』とだけ言いました」(つづく)
トップ写真:米国カリフォルニア州ペネルトン難民キャンプでのグエン・カオ・キ将軍
出典:Photo by Tony Korody/Sygma/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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